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シンガポールを創った男はジャマイカ沖で生まれた

カリブの小島でバクテーを食べた。たまたま、バクテーをつくる生薬というかそういうキットを持っている人がいて、どうだ食べないかという話になった。おいしかった。写真は撮っていない。そんな余裕はないほどにむさぼり食べたから。次はラクサが食べたい。

バクテーはマレー語でBak Kut Tehと綴り、肉骨茶と書く。マレーシアやシンガポールで食べられている料理だ。

これは中国本土(福建省)からマレー半島に苦力(出稼ぎ労働者)としてやってきた人たちが削ぎ落しきれなかった肉片がついた骨を使って故郷の料理に思い馳せながら作ったのが起源であり、それが故に「肉骨」と表現するとされている。

今日はやや強引ながら、カリブと絡めてシンガポールの話をしようと思う。

いまから240年前、ジャマイカ沖に停泊中のイギリスの商船で男の子が生まれた。彼は14歳でロンドンの東インド会社で働き始め、24歳でマレー半島のマラッカに派遣された。この時にマレー語を習得している。(※1)

彼の使命は東アジアのオランダ海上帝国を解体し、ベンガル湾からマラッカ海峡、スマトラ、ジャワを経てオーストラリアに至る海の新帝国をつくることだった。

ところがその後、本営である大英帝国の関心はひょんなことから中国にうつる。アヘンでぼろ儲けできると気づいたからだ。

スキームはこうだ。インドでアヘンを栽培、製造し、中国(当時の清)に運び、茶や陶磁器、絹など交換するというもの。

そのため、チェンナイ(当時のマドラス)と上海、香港を結ぶ航路の拠点が必要になった。そこで、彼がその戦略拠点としてマレー半島の最南端を当地の混乱に乗じて獲得、建設したのがシンガポール。1819年のことだ。

当時のシンガポールの地はマレー人、ジャワ人、インド人、アラブ人のほか、海洋民族のブギス人、マカッサル人などが集住する多民族社会だった。

建設の翌年1820年に彼はシンガポールを(アヘンの)自由貿易港として宣言し、発展するにつれて港で積み荷作業を行う労働力して中国から集められたのが苦力と呼ばれる人たちだ。(※2)

最後にジャマイカ沖で生まれ、シンガポールを創るなど東南アジアで活躍し、最後はロンドンで息を引き取った男の名を記しておこう。

彼の名はトーマス・スタンフォード・ラッフルズ

シンガポールのラッフルズ・プレイスやラッフルズホテルは彼の名にちなんでつけられている、というわけ。


彼が苦境をものともしない特別偉大な人物だったかどうかはわからない。彼でなくても、任を与えられた誰かが同じような仕事やってのけたかもしれない。単に歴史の幸運を享受できただけかもしれない。

けれど、ちょっと強引だけれど飛行機もない時代に、ジャマイカ沖で生まれ、その地球の裏側の東南アジアで半生を過ごし、ロンドンで人生の最後を迎えるというスケールの大きさに、ぼくのような交通の便が良くて世界のどこへでも数日でいける世界に生きていて、内需が苦しくなってきてるから国の外に機会を求めないといけない局面にいる日本人としては思うところがある。

バクテーを食べながら、ひとりいろんなことを考えた。

とりあえず、任務が終わって、帰国したらシンガポールでアジアの友達に会いに行こうかとか。バンコクに行こうかなとか。やっぱり住むならアジア圏がいいなとか。昔きてたパキスタン駐在の話はまだ生きてるのかなとか。


※1... ちなみにこのころ、オランダ人技師の「俺の考えではこのへんに遺跡があると思うんだ」という与太話に付き合ってジャワ島でボロブドゥール遺跡を発見している。ちなみに、世界最大級の花であるラフレシアも彼が発見している。もちろん彼の名にちなんでいる。ちなみに、当時鎖国状態だった日本との国交樹立は失敗してる。

※2... ちなみにプラナカンはもっと前、15~16世紀に中国大陸からやってきた人たちでルーツは同じとされるが、マレーや欧州の文化を積極的に取り入れ同化していった人たち。この人たちが生み出したのがラクサ。

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