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なんでもデジタルに置き換わる時代にあって残されるアナログ文化

ロンドンの街を歩いていて気づいたんだけど、街の中心地に本屋が結構ある。それも大型書店だけではない。

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これって結構珍しいんじゃないかと思う。

ぼくは、なんだかんだで世界で最も本を読んでいるのは日本人だと思ってるんだけど(マンガとか漫画とか、コミックとか)、その日本でさえ、本屋の数は減ってる。この20年で半分以下に減ってるそうだ。

イギリスも似たようなもので、ぼくが見たのは最後の生き残りに過ぎないのかもしれないけれど、それでも地方ならいざ知らず、街の中心って結構な家賃だと思う。

そんなふうに見てると郊外からロンドン中心に向かう電車の中では厚いペーパーバックを読んでる人が車両に1人はいたりする。kindleで読んでる人もいる。

イギリス人ってベッドの上とビーチ以外でも本読むんだとヘンに感動した。

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あと、本屋以上に、こういうレターショップとでもいうのかな、今の時期ならたくさんのクリスマスカードを置いてたり、お母さん宛のレターセット、娘あて、父宛、祖父宛など専門のレターセットを取り扱ってる。驚くことにほんとにこういうポストカード的なレターばかりで、他の雑貨は扱ってなかったりする。

人が来るかって?これが結構来んだよ。

ということは紙だけで採算が合うんだろう。すごいビジネス。

それだけ、イギリスの人は家族にあてる手紙だったりを書く文化がこのデジタル時代にあっても残っていてそれを今も大事にしてるんだろうなと思う。店員さんが若いし、おじさんのお客さんもいたから廃れてはいないんだと思う。素敵なことだ。

結構いろんなことをぼくは考えた。

ぼくはもう年賀状をずいぶん長い期間だしてない。たぶん最後に出したのは高校生とかそんなのだったと思う。それも手書きではないし、あて先も野球部の監督と部長のみ。

小学校とか中学の同級生で、昔から年賀状のやり取りをしてる人にはたぶん送ってたろうけれど、記憶にない。たぶんここ数年はぼく宛はゼロじゃないかと思う。正確に言うと、日本在住の外国人の友達からは届いているけれど、あれは例外。

両親は相変わらずせっせと毎年大量の年賀状のやりとりをしてるけど、都会の人はやってないだろうなと思う。東京で年賀状の話なんて聞いたことないもの。

みんなもそうかもしれないけれど、「もうそういう時代じゃないから」っていろんなものをやめてしまった、やめようとしてる。実家の墓参りとか正月の飾り付けの手伝いとか。

特にぼくはデジタルネイティブ世代ではないぶん、ぼくらのわずか数年あとのデジタルネイティブは〇〇だから、君らも対応できないとヤバいよーみたいな言説を結構真に受けてたりした。ぼくは手書きでメモするタイプだったけど、ラップトップやスマホでメモ取ろうとしたりした。できなかったけど。それで結構コンプレックス感じてたりした。田舎出身だったし。

まだ大学生のころ、某白い犬の会社はiPadを全社員に配布して紙を一切やめていて、中の人が「トイレットペーパーもないんで慣れないうちは大変でしたよー。アプリで拭くんですけどね」なんて言っていて、すごい時代になったなと感じていた。

地球環境がどうのという時代にあって、どっちが正しいとかいうのはわからない。けれど、文化っていうのは、効率がどうのっていう議論と同じ軸上にあるとは必ずしも言えないんじゃないかと思う。

かといって、ぼくが日本に帰った後、また年賀状を書き出したり、田舎の実家の長男として家督を継ぐものとして先祖の墓掃除、親戚関係の取りまとめなどの「家」のことをきっちりやるかというとそれはまた別の話になってしまうのだけど。

ひとつ思ったのは、日本で「欧米では…」というとき、たいていはアメリカのことで、アメリカは経済至上主義の資本主義社会で、新しいものが古いものを一掃して置き換わる新陳代謝激しい文化だけど、それは歴史がないから前に進むしかないからなのかもなと。そう考えれば、アメリカって結構特殊な国で、経済のためにはアメリカの動向は見ないといけないけれど、それをそのまま鵜呑みにすると、あとになって後悔することもでてくるのかもしれない。

ぼくがいま見てるロンドンは、スーパーやマクドナルドのレジが無人になってたりして新しい技術もちゃんと入ってきてているけれど、手紙を書く文化だったりクソ寒いのに便座が冷たかったりドアの建付けが悪かったりのアナログの文化が残っていて、自分たちの文化にプライドがあるのか、取捨選択がうまいのか、たまたまなのか知らないけれど、文化との線引きがうまくできているようにみえる。

これが成熟国の態度ってやつかというのを存分に味わっている。

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