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夏休みの宿題をぎりぎりまでできない私は、春休みもそう。

こんばんは、エヴァンゲリオンの地上波放送時にちょうど中学生だった佐光です。月日の経つのをとても速く感じます。

この週末、Rindaの「おともだち展」を観に行きました。
Rindaさんは、todokeru,のメインイメージを撮影してくれた、徳島で活躍する新進気鋭のフォトグラファーさんです。
よかったので、ご存知ない方はぜひ彼女の作品に触れてみてくださいね。

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ところで、私は何かを観た時、感じたときに感想を書くことがとても苦手です。観劇後のアンケートなんてその「苦手」の最たるもの!
何も感じないのではなく、多くのことを感じているものの、それを頭の中で整理して言語化する事ができなかったり、発信者の意図と異なる受け取り方をしていたらどうしよう、と思ってしまう恐れから表現できないことが多いのです。
といって、嘘は書きたくない。しかし、その場で生まれた言葉はたいてい軽率になり、意図しない受け取り方をされる恐れが多い!
そのため、アンケートを書いても多くの場合は無記名になってしまいます。。ごめんなさい。

気が弱いこともあり、嫌われたくないという思いが強いんですね。ああ、なんて気弱なんだろう可哀想。あ、実際はそうでもないです。ただ、好きな人に嫌われるのはいやですね。しかし、多くの場合好きな人に嫌われて、どうでもいい人には好…それはともかく。

写真だけではなくて絵画や現代アート、映画、なんでもそうなんですが、その対象物それ自体を見て「自由に感じること」を求められる機会は多いですよね。
「受け取り方はその人次第」とか、「そこで何かを感じてくれたらそれでいい」とか。明示的ではなく、そういうふうに解釈を投げられる。
…それが作者の怠慢である場合も否定できないことも、あるようですが?

話を戻します。

私は、作品そのものを鑑賞したときの、鑑賞者である「私」自身の想いは大切にしたいと思っています。しかしそれと同じくらい、いやそれ以上に「発信者」の想いやその発露に至る想いやルーツを知りたい、という欲があります。
ただし、私の場合は「発信者」の人間性や性格そのものよりも、そこに付随するものです。
美術展で絵画を観るとき、多くの企画展では年表や系譜の展示があったりします。絵画を観て、キャプションを読むのが何よりも好き。そうだったのか、と企画者の意図にハマった時に非常に快感を感じます。

彼女の写真展に今回足を運んで「よかった」と思ったのも、そこが大きいんですよね。

数ヶ月前にも彼女の個展に参加したのですが、その際には、彼女と展示対象の「彼」との個人的なやり取りや想いを含む日記が展示されていて、今回は展示対象である「おともだち」に対する想いやお手紙がキャプションとして展示されていました。
フォトブック内にも、また違う文面が書かれていました。
何度も読み返して楽しむ事ができました。美術展の図録を購入した気分です。

私は、そこに映っている多くの「おともだち」とは面識がないけれど、その文章が補強してくれて、「一枚のアート写真」として「美しいかどうか」という視線でしか観られていなかった、意識を素通りしていた写真にストーリーが生まれ、呼吸していく感じがしたんです。

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先日、todokeru,のぼうちゃんの「ぼうののう展」も観に行きましたが、やっぱりその作品とそこに至る想い、努力の筆跡というものは、作品と空間に命を吹き込むものだと思いました。
「適当に」とか「テクニックで」想い少なく、そつなく創り上げたものというものより、息吹や若さ、パワーを感じるものにもっと触れていきたいし、その力になりたいと思うのです。

実はね、無機質で、無駄のない、効率的で完成されたものを愛する性質なんですけれどね。年々、命を感じるものを愛しく思うようになってきました。
人は、自分が持てないものに憧れを抱くもの。そういうことかもしれません。

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さて、最近もtodokeru,は週2〜3回稽古を行っています。
私は産休に入りましたが、気分転換で見学させてもらっています。
これからまた新たなフェーズに入っていく、という予感がしてとっても楽しみ。素敵な仲間に囲まれていていつも刺激的です。いつまでも成長できない自分が恥ずかしい。
これから、さらにいろんなお知らせができると思うので、楽しみにしていてくださいね。

ではまた!

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