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仕事じゃないから

仕事を終えて後、駅近くのスーパーに足を向かわせた。
冷蔵庫を持ってなかった学生の時には毎日のように食材を調達したこのスーパーだが、学生をやめて職に就いてもお世話になっている。

割引されたドリップまみれの鶏のミンチと、流行り廃りを繰り返すゾンビみたいな炭酸コーヒーを買ってもう帰ろうかという時、怒号が聞こえる。夕方特有の穏やかな時の流れるスーパーに似つかわしくない、衝くような声。

すぐに確認する。何をか。「適切」かどうかだ。

もっと濁さずに言えば、それが正常で理解できる状況かどうかを確認するのだ。
たとえば、「誰かと喧嘩してるのだろうか」、「クレームだろうか」などなどを一気に確認する。怒りをスーパーでぶちまけるとすればこんなものだ。

結果としては「適切」なものではなかった。
その一人のおっさんは、一人なんだから誰とも喧嘩なんてしてないし、クレームらしいクレームなんてしてない。とんでもないほどの怒声を挙げながら、その手で普通に棚から商品を選んでいる。声だけが怒っている。俺の耳に蝋が詰まっていたら何も感じなかっただろう。

「どうしたん?なにがあったん?」「みんな怖がってる。声抑えよう」ー危ない危ない。"仕事モード"が切れてなかった。"無賃"での介入はどうにか避けられたが、「この人、どんな事業所に通ってるのかな」「お金を使えてるってことは判断力そのものは低くないから、たぶん統合失調症か?」ーなんてことが脳裏によぎる。

これだけなら、まあ仕事も板についてきたねって話で終わる。
でもやっぱり仕事終わりだからオフモードの、というよりシラフの気持ちも同時に湧いてくる。

「いやぁ、こわいなぁ。だって気ぃ狂ってるもの」「"これ"に対応しなきゃいけない店員さんかわいそうだなぁ」
「みんな聞こえていない、見えていないフリをしている。この俺もそうしてる。何されるか分かんないもんなぁ」

こんなあまりにも素朴な、しかし身に馴染んだ考えの、その「素朴さ」を徹底的に弾く思考もそこに総動員される。

「しかし俺とこの人の境目はそう遠くないんじゃないだろうか」
「この人を"いないもの"として扱うのは、冷酷なのだろうか。それとも何らかの意味で、俺と彼、お互いのためになるからこれこそ優しいのだろうか」
「困った人こそ困っている」

これも、おそらく「誤魔化し」なのだろう。
「素朴さ」が怖くて、攻撃してるのだ。
「いや、でも脈絡なく大きい声を出すおっさんなんて怖いだろ」という一番音量の大きい考えを掻き消したいのだ。

こんなことを頭の中であーだこーだと揉ましながらレジに辿り着く。目の前には件のおっさん。
「俺はこの不可視化された存在にもビビらないし、なんら忌避感なんぞございません」と誰にか分からないが表明するためにおっさんを目の前にした。

案外とも案の定とも言ってよいだろうが、おっさんはレジで騒がない。会計もできる。店員に頭だって下げる。その下げた頭では誰にもどうしようもないほどのモヤモヤがあるはずなのだが、こういった行動は、できるのだ。俺のほうがモヤモヤしてくる。

会計後におっさんの隣で荷物を詰める。その理由は同じだ。俺は多様性にビビらないという表明だ。
だが、それだけでもない。もう一つ確かめたいことがあった。

匂いだ。
正確には、風呂に入る習慣があるかどうかだ。

おっさんのにおいは、「匂い」でなく「臭い」だと感じた。すえた臭いだった。フローラルとは言い難い。大阪のホームレスの香水があるならそれを薄めて付けている、といった具合だった。

俺は結局、このおっさんを同じ人として「認める」素ぶりを見せながら同時に「異常」としてカテゴライズすることに努めていた。
「不快なもの」を「分かりやすいもの」にする作業を、仕事終わりのスーパーで行なった。「安心」以外の何の見返りもないのに。

誰にも示す必要のない自らの道徳的正しさ(たとえば誰もが遠ざけるおっさんにあえて近付いてみせる)をこれでもかと心の中でコーティングしながら、差別・分別をせっせとこなす俺のどこが、福祉に務める支援員に見えるだろうか?

だが、俺はそれでもこう思うのだ。
福祉が今以上に専門的になりその需要が増せば増すほどに、つまりサービスの質が高まるごとに、専門外の人々は当の利用者のことを放置してもよく、同じ人間として見なくてもよいし、なんなら見ないことが正しい、という考えが内面化されるのではないかと。

言ってみれば、俺は、障害や障害者に対して、具体的にどう接するべきなのか分からない。
分からないからそもそも認知していないことにするという消極的だがこれ以上ない正しさにしか従えない。

たとえば、障害を理解し配慮するというのはどういうことか?

「誰それさんは統合失調症だから、これこれに配慮すればいい」→「障害でひとくくりにするな」と言われたら?

「どんな人も人であることに変わりはない。だから人として当たり前のことをしてあげればいい」
→そこで言われている「人」の実体と「当たり前」が多様で不鮮明であるという点が強調されているだけだから、何にも意味がない。

そう、こんな感じで、どこに地雷があるか分からないから、探り探りやるしかない。
だから、スーパーではじめて会ったその人の地雷なんてわかりっこないので、なにもしないし、すべきでない、ってことになってしまう。

だから俺はこう考える。
障害や障害者に対して理解が及ぶ社会は、皆が暖かく優しい社会ではなく、専門職以外の人間は見向きもしなくなるドライな社会である。





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