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風の人?土の人? 我が南相馬暮らし


南相馬で暮らすとは

 私が南相馬に通い始めたのは、2011年の4月、完全移住をしたのが2011年の10月だ。関わり始めて11年ちょっとになる。元々私は埼玉でトラックドライバーをしていて、物事を深く考えることなく刹那的に生きていた。そんな私が、今や南相馬で街づくりの活動を行っている。何とも不思議なことだが、そうするに至るには色々な出来事があった。

 全てを書くと壮大な話になるので、今回は「そうするに至った『想い』」について記したい。

移住のきっかけ

 2011年4月3日、私は南相馬の地にやって来た。自ら用意した支援物資を届けるため。
 市境を越えて南相馬市内に入った途端、周囲の空気が変わったことを感じた。


 街の全てが止まっている。
 そして国道沿いにはおびただしい量の瓦礫が重ねられ、津波で流されてきたと思われる漁船が、あちらこちらでばら撒かれていた。国道から海の方角を見やると、見渡す限り泥の海。そして、基礎ごとゴッソリ流された家屋の数々。
「これは何とかしなければ!」
それ以来私は、毎月1~2回、弾丸で埼玉から南相馬に通い、ボランティアとして災害復旧作業に当たったのだった。
 そんな中で、たくさんの地元の方に出逢うのである。
 地域の方は皆さん、ご自身が被災者であるにもかかわらず、どこの馬の骨とも知れないような私を、そのとき出来うる限りの歓待で迎えてくれるのである。
「この人たちは、自分が大変な状況なのに、何故こんなことが出来るのだろう」
まずそこで、私の心が動いたのだ。


 そうこうしているうちに私は、南相馬に長期滞在するようになり、そしてついに、運命を変える人と出逢うのである。その人は言った。
「なぁぐんそう(私の通称)、コミュニティカフェを開こうと思うんだけど、一緒にやってくんねえか」
と。その頃の私は「移住も良いかもしれないな」と思い始めていた。「こっちでトラックに乗りながら、休みの日にボランティア作業に参加しようかな」などとボンヤリ考えていた私にとって、この誘いはまさに渡りに船だったのである。誘いに乗った私は、その翌月に埼玉から完全移住したのだった。

学び多き日々①きちんと自分を見せる

 コミュニティカフェの活動は、「震災後の人々の話どこまで聞くことが出来るか」ということに尽きた。

コミュニティカフェ「べんりDaDo」

カフェでコーヒーを入れながら、時には避難所のサロンに出向いて、毎日街の人の声を傾聴し、最近の様子や困りごと、不満に思うことなどをひたすら聞く。震災の時のことから、普段の生活のこと、果ては昨日のテレビ番組のこと。
 カフェに備え付けられていたテレビで、来客と一緒に相撲中継を見ながら、「○○頑張れ!」「あー負けちゃった!」と声援を送ったことも。
 とにかく時間を共にして、その言葉に耳を傾けた。
 そんな日々を送っていると、「この街で何か変わったことしてるやつがいる」という話が広がり、街で開かれたある会合に「参加しなさい」と呼ばれることになった。会に呼んでくれた人は、震災前から南相馬の街づくりを行ってきた人。会合の出席者は、震災後に南相馬で「この街を何とかしよう」と立ち上がった、たくさんの市民団体の人たち。そこに参加したことで、私も「震災後の南相馬を新たに創る」という大きな渦に巻き込まれていくことになった。
 その後、“被災地初のフューチャーセンター(通称「みみセン」)”なる場所を作ったり、街を盛り上げるためのイベントを行ったり、子どもが放射能の不安から解放され、安心して遊べる遊び場を創ったりといった、たくさんのことを体験させてもらった。

被災地初のフューチャーセンター「みんな未来センター」
中の様子



 その中で私が再確認したのは・・・・・・
「私には事業を興すスキルも無ければ、プランを組み立てる頭脳もない」
「それどころか、1人では何も出来ない」
ということだった。息も絶え絶えになりながら、何とか周囲について行き、自分のすべき事を見つけ、自分の居場所を確保していった。
 その時期に、お世話になっている地元の人から
「あんた、自分がナニモノで何がしたいのか、何が出来るのかを、ちゃんと地域の人に知らせて廻りなさい」
「近所の人に警戒されてしまうから、きちんと挨拶回りをしてきなさい」
「毎日道路の掃き掃除をしながら、通る人に挨拶をしなさい」
 何故こんなことをしろというのか、本当の意味では分かっていなかったが、せっかく教えて頂いたし、確かに挨拶は大事だからということで、教えてもらったことをとにかくやってみることに。

 そしてこのことが、私の南相馬生活を支える大きな柱になる。

学び多き日々②人々の暮らし

 私が住み着いたのは、南相馬市原町区という場所。震災後の原発事故に伴って、イチエフ(事故を起こした福島第一原子力発電所。現地の人は「イチエフ」と呼ぶ人が多い)からは直線距離で25kmほどの場所だ。その辺りは原発事故後、「屋内待避区域(その後『緊急時避難準備区域』に変更)」に指定された場所で、つまり人が住んでいたのだ。ほんの数km南に行けば、立ち入りが出来ない「避難指示区域」となっていた。この数kmの差で、放射性物質が振った量に差があるわけではない。放射線量を測定すると、場所によっては避難指示区域の方が、線量が低かったこともあったほどだ。

 つまりここの人たちは、得体の知れない放射能とまともに向き合いながら、自らの手で生活を再建しなければならなかったのだ。

 震災直後は、この地域の商店は全て閉まっていて、街に残っていた人は生活物資を手に入れることに大変な苦労をしていた。商品の流通そのものが止まっていたため、商店を開けたくても開けられなかったのだ。被曝を恐れた物流業者が、この街への輸送を拒否したからだ。
 その状況を受けて、直接東京の市場とつながって商品を仕入れ、震災後1週間ほどでお店を開いた店があった。仕入れが心細い中、頑張って開けた商店もあった。警察や自衛隊車両に給油するためにお店を開けたガソリンスタンドに、「働きたい」と避難先から帰ってきた従業員と共に営業を開始したクリーニング店、いつも使っている場所が使えなかったので、お寺を借りて再開した保育園など、この地域には、数え切れないほどのストーリーがある。そしてそこには、例外なく「この街を何とかしたい」という想いがこもっているのだ。今となっては顧みられることすらない、想いのこもった無数のストーリーが、この街には存在している。
 この街に残っていた人は、否応なしに不安を抱えていた。
「この街に居続けて良いのだろうか」
「放射能の影響が、後々出てくるのではないか」
「これから生活はどうなってしまうのか」・・・・・・。

学び多き日々③私に出来ること

  そんな中で私に出来ることは、やはり「地域の人の話を聞くこと」しかなかった。震災時の恐怖の記憶、避難生活の不自由さや寂しさ、これから先どうなるかという不安、放射能に対する恐怖など、膨大な量の「言葉」を聞き、「気持ち」を受け止め続けた。
 自分でプランを作って事業を行っていく能のない私には、それ以外になかったのだ。
 そんな中で私の中に、ある葛藤が生まれてきた。それは・・・・・・
「いくら傾聴しても、実際の震災を体験していない私には、その言葉に『共感』することが出来ない」ということから生じる葛藤だった。
 一般的に、人の話を聞くときは「共感力」が大事であると言われる。なのに私は、いくら傾聴しても「共感する」ことが出来ない。自分の体験の中で同じような体験に置き換えようにも、震災体験に置き換えられるような体験は無かったし、置き換えようとしても何とも白々しくて、とても共感など出来なかった。
 それから私は、「共感出来ない」自分を責めるようになる。共感出来ないのは、自分が冷たい人間だからでは無いか・・・・・・自分に人の心をキャッチする力が欠けているのでは無いか・・・・・・自分はここにいるべき人間じゃ無いのではないか。考えてみれば、同じ体験をしていないのだから、共感出来ないというのは当然のことで、奇妙なことではない。すると今度は、自分が震災体験をしていないことを恥じるようになった。自分は震災体験をしていない。だからここの人たちと交わることは出来ない・・・・・・と。

 この苦しみは、数年間私の心を支配した。だが、震災とは全く違う体験をすることで、この苦しみから解き放たれることになる。

 2013年の正月元日、私は脳梗塞で倒れた。右半身は完全に麻痺し、歩くこことはおろか、立ち上がることも出来ない。私は右利きなのだが、ペンを取り文字を書くどころか、右手で物を持つことすら出来ない。治療とリハビリで、半年ほど入院することとなったが、その入院生活で気づいたことがあった。
「みんなが自分を元気づけようとしてくれるが、右半身が動かなくなった大変さを分かってくれる人は、健常者の中にはいない」
そこでこう思う。
「同じ体験をしていないのだから、分からなくて当然だ」
「でもまさか自分と同じ体験を、人に強いることなど出来ない」
そしてそのとき、大事に感じたことは
「苦しみを分かってもらうことより、そこに『苦しい』という感情を置いても受け止めてくれた方が気持ちが楽だ」
ということだった。
この事に気づいたとき、長らく私の心の中に掛かっていた霧が、少しずつ晴れていくように感じたのだ。
 と同時に
「これで少し被災者の皆さんに近づけたかな、皆さんの話を聞く資格を得ることが出来たかな」
とも思った。

学び多き日々④「風の人」「土の人」

 脳梗塞による片麻痺は、私の生活の幅を狭めた。脳梗塞は再発しやすい病で、私も計3回、脳梗塞を起こしてしまった。その度に別の部位が不自由になる。となると、どこかに就職して働くことは出来なくなってしまう。今の私は、奇跡的に日常生活に支障のないところまで回復しているが、肉体労働に従事することは出来ないし、拘束時間のある中で働くことも出来ない。ということは、裏を返せば何をするにも自由だ(お金は稼げないが)。そんな中、こんなことを考えるようになる。

 私は「風の人」なのか「土の人」なのか

「風は遠くから理想を含んでやってくるもの」
地方創生の領域でいうと、「風の人」とはヨソモノのこと。
「土はそこにあって生命を生み出し育むもの」
地方創生の領域でいうと、「土の人」はそこにずっと住んでいる人のこと。
 その頃の私は、
「自分はヨソモノのままこの地域に受け入れてもらおう」
という想いが強く、ヨソモノであることにこだわっていた。
 つまり「風の人」で居続けようとしていたのだ。
 何より3.11の時に私はここにいなかった。そのことをずっと、引け目に感じていたのかも知れない。だからヨソモノであることをわきまえて、地域に受け入れてもらおうとしていたのだ。
 けれども考えてみれば、これはとても不誠実な話だ。この街で暮らしているうちに、街の人から
「ぐんそうはもうこの街の人だよね」
という言葉をかけてもらえるようになってくる。そこに
「私はヨソモノのままここにいようと思います」
と答えていたのだが、「ぐんそうはもうこの街の人だよね」という言葉の向こうには、
「あなたはこれからもこの街に寄り添ってくれるんだよね」
という気持ちがあるのだ。それに対して「私はヨソモノのままここにいようと思います」などと言ってしまうのは、
「地域の人になる気はありません」
と言っているようなものだ。これは、これまで大変お世話になったこの街に対する裏切りだと思えた。
 私はよその街で生まれ育った人間だ。これは変えようがない。一体どうすれば・・・・・・私の出した答えは
「この街のことを、より深く知ろう」
ということだった。街の隅から隅まで見て回り、景色や商店を覚え、地域ごとに微妙に異なる生活を見て、地域の歴史や風習を学び、そこの人々の話を聞く。元々私はこの街が好きだから移住したのだが、よく知ろうとしてみたところ、私の生まれ育った場所とは違う様々な物が見えてきた。
 それは1つ1つ分解してみてみると、都会やその近郊の新興住宅地からは消えつつある文化や風習、そしてそこから生じている人のつながりが生み出しているものだった。

相馬野馬追

 集落全体で取り組む「結」という農の風景だったり、ご近所や知り合い同士で行われる「おすそ分け」文化だったり、相馬野馬追を始めとする歴史であったり、天明の大飢饉以降に取り入れられた「報徳思想」による暮らし方だったり・・・・・・もうとにかく様々なところに、素晴らしい習慣は垣間見ることが出来る。
 今となっては、私の目にこの街は「宝の山」にしか見えない。確かに都会と比べれば、この街には足りないものはたくさんある。けれどもそれ以上に、都会にないものがたくさんある。私にとって、それこそが重要だったのだ。

 そのことに気づいた私は、自分のことを「元移住者」と名乗ることにした。これは即ち「元ヨソモノ」と名乗るということ。
 
 こうして私は「土の人」になった。
 まだ確信を持って自分を「土の人」とは呼べないので、これからも「元移住者」と名乗り続けるだろうが、誰かに「出ていけ」と言われない限り、この街に居続けようと思っている。

南相馬暮らしの集大成「もとまち朝市」

 2021年の11月から私はこの街で、月に1回「もとまち朝市」という朝市を開催している。そこでは地元の小規模農家さんに、自分で育てた野菜を持ってきてもらい、それを軽トラの荷台で販売している。

もとまち朝市の様子


  「もとまち朝市」を開催する周辺は、非常に高齢化率が高く、中には買物困難者もいる。そうした人たちに買物をしてもらうため、そして買物という「日常」を楽しんでもらうために、朝市は開いている。


試食のおにぎりを楽しむお客さん


 場所は南相馬市原町区の本町というところにある「三嶋神社」の参道だ。この本町という場所は江戸時代、陸前浜街道という街道の宿場町「原町宿」が置かれたところで、この街の大本だった場所だ。その真ん中にある三嶋神社は、本町の象徴のような場所。ここに朝市を出せるようになったのは、地元の人の後押しがあったおかげだ。「朝市を出そうと思う」と本町商店会の会長さんに相談しに行ったところ、
「朝市を出すなら三嶋神社で出しなよ。俺が話し通してやるから!」
と言ってくれたのだ。
 この商店会の皆さんには、先に書いた「みみセン」を開いたときに挨拶をして廻ったとき以来、大変お世話になっている。つまり「ちゃんと挨拶回りをしなさい」「毎日道の掃除をしなさい」という助言を、実行したことが聞いているのだ。
 商店会の皆さんに朝市の説明をして歩いたとき、どの方も本当に話をしっかり聞いてくれ、
「有難う!とても良いと思う!」
「協力出来ることは何でもするから!」
と声をかけてくれた。


 ところがこの朝市を分解してみると、私自身は特別なことは何もしていない。野菜を栽培もしていないし、もちろん販売もしていない。開催場所を持っているわけでもないし、朝市を告知するチラシも作れない。告知する媒体なんてもちろんない。資機材の類は何も持っていない。
 全て人にお願いして、あるいはお借りして、「開催させてもらっている」のだ。

出店者と来場者が井戸端会議

 私はただ「お願いします」と頼んだだけ。だけどこれが大事なのだと思う。

 「こんなことがやりたいんです!手を貸して下さい!」
と言って手を貸してもらえる関係を、私は意識せずに創っていたのだ。
始めに「挨拶はしっかりしなさい」と受けたアドバイスを、手を抜かずに続けてきた結果だ。
 そして、先に挙げたこの街の「宝物」に気づかせてもらい、それを大切にしてきた結果だとも思う。

 私はこの「もとまち朝市」を、よりたくさんの人が集まる場所に育てていきたいと、これからも手をかけていくつもりだ。

伝えたいこと

 南相馬市という街は今、震災とは違ったフェーズに入ろうとしている。移住者の受け入れを積極的に行い、若者の起業を支援している。そのため今、起業を目指して移住しようという若者や、既に起業したベンチャーにインターンでやって来る学生、この街で子育てをしようという子育て世帯など、たくさんの人がこの街を訪れている。
 そうした人たちに私は伝えたい。
「この街は宝の山です」
「でもその宝は、見つけようとしなければ見つかりません」
「宝を見つけなければ、ここは不便な場所になってしまうでしょう」
と。
 そして街の人たちに伝えたい
「受け入れてくれて有難う」
「このご恩は決して忘れません」 
と。
 病気を抱えた私なので、いつまで動けるかは分からないけど、体が持つ限り私は、この街に恩返しをしながら、ここで楽しく過ごしていこうと思う。


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