ダイアログインタビュー ~市井の人~ 内田雅人さん「私が動く理由」3

――ここの一番良いとこって何だと思います?

内田 何なんだろうね…意外と人は良いと思うけど(笑)。

――意外どころかメチャメチャ良いですよ(笑)。

内田 (笑)人は良いんじゃないかな。面倒見が良い人が多い気はするね。

――それは思います。私も他所からここに来て、メチャメチャお世話になってます(笑)。そんな私みたいな人間の面倒を見てくれる気持ちって、どこから来てるのかなという部分は聞いてみたいなとは思いますよ。…話は飛びますけど、内田さんは震災当時、真野小(真野小学校)のPTA会長さんだったんでしたっけ?

内田 いや、震災の時はPTA副会長だったの。震災の直後に年度が替わって、会長になった。でも、PTA総会なんか出来る状態じゃなかった。南相馬市内の小学校は、震災後、2011年の4月22日から再開したんだけど、真野小は「鹿島生涯学習センター」を仮校舎として再開したわけ。そこに…正確には覚えてないんだけど…確か6月だったか7月だったかに集まれるPTAを集めて、臨時のPTA総会を開いて、そこで会長に選出されたの。だから、会長に選ばれたのは少し後だったね。

――その頃は、避難してた子も多かったでしょ?

内田 その頃は俺の息子も避難してたしね。息子のサッカーに付き合うのに、毎週末に避難先まで通ってたりしてたし。息子がこっちに帰ってきたのは、年が明けて3学期になってからだね。

――真野小は南相馬で唯一津波の被害を直接受けた学校ってことで、良くも悪くも注目されてましたね。

内田 そうだね。相馬地方では唯一だったね。

――2011年に内田さんは、南相馬市の中学生とピースボートの船に乗り、東南アジアを歴訪しましたよね。あれってどんなきっかけだったんですか?

内田 この前も乗ってきたんだけど…今年(2016年)は3月29日から4月6日までかな。仙台から博多に飛行機で飛んで、博多から釜山、上海、那覇、長崎と経由して、博多に戻るというショートクルーズに乗ってきた。中学生が10名、高校生が1名、専門学校生が1名だね。ピースボートさんは、被災地支援の一環として、震災後の早いうちに福島にも支援に入ってくれてたの。ボランティアセンターは石巻に構えていたけどね。で、共同代表の方が「何か出来る事有りますか?」と南相馬に来たところ、西さん(鹿島区の男山八幡神社の宮司さんで、現在、NPO法人「南相馬こどものつばさ(詳しい説明は後述)」の理事長として南相馬のこども支援の活動をされている。現在内田さんは「南相馬こどものつばさ」の役員でもある)を紹介されたんだって。「子供たちに関する支援」ならば西さんだろうという事でね。

――そういう流れから始まってるんですか。

内田 最初は支援物資として、マスクなどをもらったらしい。その後「他に何かお手伝い出来る事有りますか?」と申し出てくれた時、「子どもたちを放射能の心配のないところで、安心して遊ばせたい」という話を出した。そしたら「それ、海外でも良いですか?それも船で。それなら得意ですよ!」という風に申し出てくれたようで、そこからトントン拍子に話が決まっていったの。最初の年は49名の参加で船に乗ってね。そうして始まったのがピースボートの海外企画だけど、その他にも「うちのところにお子さんをご招待しますよ。」という保養ツアーの申し出が行政などにたくさん来ていて、さばき切れずにいたの。それを「じゃあ出来る人で対応しましょう」という事で市のPTA連絡協議会の有志が集まって、子どもたちへの保養支援の申し出の受け皿として活動を始めたの。これが「南相馬こどものつばさ」の活動のきっかけだね。今はNPOになってます。

■ 「南相馬こどものつばさ」とは、「NPO法人南相馬こどものつばさ(以下「こどものつばさ」と呼ぶ)」という特定非営利活動法人(NPO法人)の事である。南相馬に住んでいる子どもたちを対象にした県外各地への林間学校、キャンプ泊といった保養プログラムの開発・運営や、保護者向けのイベント運営、放射能に対する勉強会などの開催といった活動を行っている。「こどものつばさ」は震災直後の2011年6月にまずは任意団体として活動を始め、2012年8月にNPO(特定非営利活動法人)となっている。内田さんはその「こどものつばさ」の理事としての活動もされている。
有難い事に当時の南相馬には「南相馬の子どもたちを我が地域で保養させてあげてください」という支援の申し出がかなり来ており、そうした申し出の受け皿として、「こどものつばさ」は活発に活動している。内田さんのお話では、その活動を始めるきっかけが、たくさん寄せられた保養支援の申し出に行政などが対処しきれなかったところにあるという。当時も今も、南相馬の行政は案件山積で人手も足りない中で運営しており、対処しきれなかったのも無理からぬ話ではあるが、期せずしてその事が「こどものつばさ」というチームを生み、新たな市民と行政の共働の形を創ったという事か。まさに瓢箪から駒な話だが、当時の震災後の大変な混乱期の中、これは一つのきっかけとしてとても興味深い出来事だと思う。

~続~

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