始めたのは50年前
一ヶ月も前にもらった相談の、答えきれなかった文のリストをずっと眺めては、回答のようなものをつらつらと何千文字も書き、そして消してを繰り返していた。
雨が降る静かな土曜。朝になっても昼になっても薄暗くて、ずっと雨の音がしているのになんの音もしていないみたいで、ぼんやりと頭がいたくて、余計なことを考えない今日。
アレハンドロ・ホドロフスキーの「サイコマジック」をソーシャルディスタンスの保たれた劇場で見た。二倍三倍の値段を払ってもいいからいつもこのくらい映画館に隙間があったらいいのになと思う。
サイコマジックはホドロフスキーが続けている心理療法で、自作の中に出てくるようなシーンの再現や、奇天烈な体験をもたらして相談者の悩みを解きほぐすセラピーだ。相談者は家族のこと、夫婦間のこと、人生のこと、ごく個人的な悩みをホドロフスキーに打ち明け、それからその悩みに合った処方箋を授けられる。マッサージの時もあれば、土に埋めれてその上に生肉をばら撒きトンビに食べさせたり、憎んでいる家族の顔写真を貼ったカボチャをハンマーで叩き割ったりと、内容は相談者によって異なるようだ。それらをドキュメンタリーとして追っていく。はじめこそ少し笑ってしまうような奇妙な光景に見えるものの、だんだんと、全くわけがわからないことをしているわけでもないということに気が付く。あるものは慟哭し、あるものは裸になって赤ん坊のように身体を預ける。「父を許せない」という相談者には、数々の身体的体験をさせたのち、最後に父の顔写真を貼った赤い風船を持たせ、それを空へ向けて放たせる。ドキュメンタリーの中では、サイコマジックを終えた誰もが、生まれたての赤ちゃんのように、多くの光を取り込んでキラキラと瞳を輝かせていた。
家族を許せないと悩む人、人生は思ったよりも大したことがなかったのだと落ち込む人、お互いの悩みを理解できずにいる夫婦、吃音によって自信が持てずにいる人、生まれてくる赤ちゃんを愛せるか不安な人。悩みの数々は、私たちも感じることのあるごく一般的なものだ。相談者たちを見ていて思うのは、彼らの多くが何かに囚われて感情を自ら抑圧しているという共通点のことだった。「こう思うけれど、本当はこんなこと思ってはいけない」あるいは、感情を出したところで第三者からそれを否定されてしまう。そういった状態になった経験がない人の方が少ないと思う。世の中を見渡していると、有名人の不倫報道でなぜか被害者面して騒ぐ人、インターネット上ですれ違っただけの気の合わない誰かに怒鳴り散らす人、誰かにストレスを与えられているとして、そのことを本人に言えないまま抱え込む人、他の誰かに八つ当たりをする人、誰かを馬鹿にすることで無知を隠そうとする人、寂しさを怒りで覆ってしまう人……決して綺麗とは言えない感情を抱えている人がいくらだって目につくけれど、多分本当は、感情が生まれてくることそのもの自体は決して悪いことなどではなくて、そのエネルギーを何処にも出すことができなかったり、出したところで第三者に否定されたりすることによってその人自身が腐敗する原因になってしまうのがいけないんだな、と思った。生きることは理不尽の連続で、親もクラスメイトも上司の人格も選ぶことができない上、他人という生き物を自分に合わせてねじ曲げることも易々と許されはしないのだから、怒りや悲しみ、拒絶の感情が湧き出ることは当たり前で、それを人生から完全になくすことはどんなお金持ちでも美人でも天才でも出来はしない。だから、気をつけるべきは負の感情自体を抑圧したりされたりすることの方なのだ。きっと。
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