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映画レビュー:地雷を踏んだらサヨウナラ(1999)戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の足跡を追いつつ、彼がアンコールワットを追い続けた理由を心に刻む

ストーリー

 1972年4月。一ノ瀬泰造(浅野忠信)はフリーランスの戦場カメラマンとして、カンボジア内戦の戦場にいた。小隊と行動をともにし、戦闘が開始されると、銃弾が飛び交う中、カメラを構えてシャッターを切り続ける。その恐れを知らない姿は、同業のティム・ヒル(ロバート・スレイター)を驚かせるほどだった。しかし写真の腕は今ひとつで、ティムのネガは150ドルで売れたのに、泰造のネガは10ドルにしかならなかった。ティムは彼に、戦場で危険を感じ取る能力が欠けている、と忠告する。泰造は再度戦場に行き、身体を張ってクメール・ルージュの捕虜の写真を撮ったが、それでも30ドルにしかならなかった。通信社の担当者に彼は聞く。アンコールワットならどうか、と。担当者は、アンコールワットはクメール・ルージュの聖域だから、もし写真が撮影できれば2万ドルは下らないだろうと言うが、同時に、記者は敵とみなされ既に10人以上が行方不明になっているから、やめておけと警告する。泰造は「ピューリッツァー賞はもらった」と目を輝かせる‥‥

レビュー

 少女漫画雑誌「りぼん」に掲載されていた清原なつのの漫画でロバート・キャパを知ったのが高校生のとき。大学生になった頃、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を読んで戦場カメラマンに憧れ、映画「プラトーン」や「キリング・フォールド」で1960年代から70年代にかけてインドシナ半島で繰り広げられた戦争を知った私には、ピンとくるタイトルの映画だったが、見る機会のないままになっていた。それが、Amazonプライムビデオのおすすめに出てきた。これはもう見るしかない。そして、見た。ものすごく自分にはツボな映画だった。

 そういうわけで、とても見る人を選ぶタイプの作品だと思う。というのは、わずか26歳でこの世を去った戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の生き様を追った映画でありながら、その時代背景となっているベトナム戦争とカンボジア内戦について、鑑賞者にわかりやすく説明しようとはしていないからだ。泰造はベトナム戦争とカンボジア内戦という二つの異なった戦争の戦場に赴いているが、それは見た目にはよく似ているので、会話の中から感じるしかない。むしろ、感じることをとても大事にした作風なのだ、ということができるだろう。
 冒頭の戦場でティムというアメリカ人カメラマンと知り合う。彼は泰造と同じタイプのカメラマンなのだろう、ということが薄々わかる。対照として描かれるのが、ドイツ人カメラマンである。彼はカンボジア軍兵士がクメール・ルージュの捕虜の首を斬って得意げに手に持つ写真を撮って6000ドルを稼いだ。金のためなら残虐な場面も躊躇なく撮る、という主義なのだ。

 ここで、クメール・ルージュについて解説しておこう。

 クメール・ルージュとはカンボジアに存在した共産主義勢力。「赤いクメール(カンボジアの主要民族名)」を意味し、指導者の名をとって別名ポル・ポト派とも呼ばれる。1970年にカンボジア王国を倒すが、インドシナ半島の共産化を防ぎたいアメリカが親米のロン・ノル政権を立てて支援することで激しい内戦が繰り広げられた。クメール・ルージュは原始共産制を標榜し貨幣経済を否定、医師や教師など知識階級を敵視して処刑した。少年少女は親と引き離されて親を敵視するよう教育され、戦場に駆り出された。赤と白のチェックのスカーフが目標となっている。

 カンボジアの首都プノンペンから親友らの待つシェムリアップ村へ戻ってきた泰造は、村の子供たちから大歓迎を受ける。日本人である彼だが、すっかり現地になじんで受け入れられているのだ。ソッタとチャンナという兄弟、親友のロックルーらとの交流が、微笑ましい平和な情景として描かれる。
 しかしその日常が一瞬にして阿鼻叫喚に変わる、というのが彼らの生きる現実である。遊び場が砲撃され、子供たちが死傷する。一緒に遊んだソッタが血まみれになった様子を撮ろうとカメラを構える泰造だったが、こんなときに写真を撮るのか、と母親になじられ、どうしてもシャッターを切ることができなかった。
 そんな中、泰造はチャンナの言葉を思い出す。「アンコールワットに行ったら、お父さんとお母さんが、早く帰るように頼んできて」。そのときソッタが悲しい表情をしていた、とロックルーに話すと、彼は二人の両親が米軍の爆撃で殺されたが、チャンナは幼くて死の意味がわからず、いつか両親は帰ってくると信じている、と打ち明けてくれた。
 ここで、泰造の心の中でアンコールワットの位置付けが、変わったのだと私は思った。

 泰造はアンコールワットへ行こうとし、ついに高台からその塔を見て写真を写すが、軍事機密だとしてフィルムを押収されてしまう。再びその場に近づいたとき、今度はクメール・ルージュの兵士に捕えられ、カンボジア軍に引き渡されるものの国外追放となってしまう。

 1972年8月、泰造はベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン)にやってくる。そこで通信社の壁に1966年のピューリッツァー賞受賞作を報じるニューヨークタイムズの記事が張り出してあるのを見る。ここでも、何の説明もされないが、記事の横に額装して飾られていた写真こそ、ピューリッツァー賞を受賞した日本人カメラマン、沢田教一の「安全への逃避」である。日本の新聞は泰造を取材し、「自由とカネと栄光と」というタイトルをつけていた。少なくともこのとき、彼は沢田教一の写真を見て、栄光への思いを刺激されたかもしれない。
 ベトナム戦争の戦場に赴いた泰造は、そこでティムと再会する。そこで激しい銃撃戦になり、ティムは被弾してしまう。彼は泰造に、アメリカに送り返すな、おれはベトナムの土にかえりたい、と言い残して死ぬ。

 このときの泰造の写真が、ついにワシントンポストの一面を飾る。しかしクレジットされていたのは自分の名ではなく通信社名だった。その写真で彼は「UPIニュース写真月間最優秀賞」を受賞する。しかし、故郷の佐賀県武雄市に一時帰国したのち、ベトナムに再入国した彼は、国外追放となり正規ルートでは入国できないカンボジアへ、弾薬運搬船に乗り込んで再入国するのだった。アンコールワットに行くために。

 こうしてストーリーを追っていくと、戦場カメラマンである彼の心境が、現場に深く関わるうちに変わっていったことがなんとなく感じられるのではないだろうか。最初は2万ドル、という金額に心躍った彼だったが、有力紙の一面を飾る写真でおそらくは金も少しばかりの栄光も手に入れてなお、アンコールワットを目指すのは、得たものと引き換えに失ったものへの「祈り」があったからではなかったか。

 戦場カメラマンに対して、投げかけられる問い。
 金のために危険を冒すのか?
 よく、人が死んでいるこの状況で写真が撮れるね?
 結局、戦争が好きなんでしょ?
 その問いに、泰造は答えない。だが、なぜアンコールワットなのか、というベトナム人女性レ・ファンの問いに、彼は答える。

 なぜアンコールワットなのか、わからない。でも大切な人が死んでいくたびに、アンコールワットへの想いが強くなっていく。日本を出てからずっと探していた何かが、あそこに行けばすべて解決するような気がしてきたんだ

 日本に戻っても、泰造は姉の結婚式には出席せずに、旅立ってゆく。カンボジアに入ったら、解放区(クメール・ルージュの支配地域)に取材で入れるというのに、親友ロックルーの結婚式に行くために先延ばしにする。泰造は、どこまでも自分の思いに正直に振る舞う。戦場から遠く離れて彼のことを案ずる家族よりも、同じように命の危険に身を晒しながら生きるカンボジアの村人たちとともにあることに、魂の喜びを感じたのだろう。

 ただの遺跡だ。アンコールワットの撮影を禁じるカンボジア軍将校に泰造は言ったけれど、アンコールワットは、ただの遺跡ではない。その当時、クメール・ルージュの支配下にあり、地雷がめぐらされて誰も近づけない聖域だった。
 それは彼にとって、ただ一つ、命を賭けてたどり着くべき場所だったのだ。

 主演の浅野忠信は、本作の主言語である英語とカンボジア語、ベトナム語で演技し、どの場面も違和感なく自然に、あるがままにその人、一ノ瀬泰造であるかのようにそこにあって素晴らしかった。現地の子供たちとはしゃぐ姿、自分には弾は当たらないと信じて戦場を走り回りシャッターを切る姿。一ノ瀬泰造が感じていたであろう、カンボジアへの愛が、そこにあふれていた。


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