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映画レビュー:機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島(2022)作画崩壊の伝説回が、作話崩壊の映画になって帰ってきた…なぜ、ドアンの内面に向き合わなかったのか?

はじめに

 最初に申し上げておくが、このレビューにはネタバレを含む。そして、その内容は手厳しいものになると思う。なので、本作の感動を分かち合いたい人や、絶賛レビューを求めている人は、お読みにならないことをおすすめする。


ストーリー

 ジオンの地球侵攻軍の本拠地を叩くため、オデッサを目指していたホワイトベースは、補給のため立ち寄ったラス・パルマスで、無人島・アレグランサ島にいる残置諜者を掃討せよ、という指令を受ける。(死んだわけでもないのに)二階級特進で少佐になっているブライト・ノアは、アムロ、ハヤト、カイらを島に送り込んで残敵の捜索をさせることにする。誰もいないと思っていた島には畑があり、カイは乗っていたガンキャノンに石をぶつける子供たちと遭遇。一方アムロは謎のザクに襲撃され、ガンダムシールドを真っ二つにされた上、崖から墜落。カイやハヤトらは天候が悪化する中、見失ったアムロの捜索を早々に打ち切り、引き上げざるを得なくなる。
 やがてアムロは、粗末な寝台の上で目を覚ました。島には20人の子供たち、そしてククルス・ドアンと呼ばれている謎の男がいた…

本作の位置付け

 映画冒頭に、「この映画は1979年に放映された『機動戦士ガンダム』第1シリーズ中の15話『ククルス・ドアンの島』を翻案したものです」というテロップが出る。これが、曲者である。この言葉を鵜呑みにしていると、最初のシーンで「???」となる。いきなり連邦軍の量産型モビルスーツ・ジムが姿を見せるからだ。1979年に放映された『機動戦士ガンダム』(以下、原作)を知っているなら、大抵の人は驚くだろう。ジムが登場するのは、第29話が最初なのだから。
 ホワイトベースの乗組員の中に、スレッガー・ロウがいてリュウ・ホセイがいないことにも困惑させられる。スレッガーの原作での登場回は31話、リュウは21話で戦死するまでホワイトベースを離れたことはなかった。

 ここに、一つのハッタリがある。実は本作は1979年に放映された『機動戦士ガンダム』ではなく、本作で監督を務める安彦良和氏の漫画作品『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を土台にした上で、『THE ORIGIN』でも取り上げられていなかった「ククルス・ドアンの島」を、『THE ORIGIN』に組み入れる形で翻案したものなのだ。
 『THE ORIGIN』は原作をベースにしながらも、安彦氏による再解釈がなされストーリー展開がかなり異なっている。そのため、安彦氏の漫画作品を読んでいる人には、上記のことは納得ができることのようだが、原作しか知らない人にとっては「なんで???」となる。実際、 Amazonプライム・ビデオでの本作のレビューには、「ホワイトベースの航路が変」とか「時系列がわからない」「スレッガーが出ているのはファンサービスなのか」といった、混乱した様子を書き込んだものもちらほら見られた。そして私も、混乱した者の一人である。

 それでも、同じガンダムなんだから…と気を取り直して見ていたが、残置諜者掃討のために上陸した島で、ザクの襲撃を受けたガンダムが、ザクのヒートホーク(巨大電熱器)でガンダムシールドを真っ二つにされてしまったとき、「もうダメだ、これはまったく別の、ガンダムによく似た何か、だと思って見よう」と心に誓った。

 ザクといえば、ジオン軍の撃墜王、通常の3倍のスピードで接近してくるシャア・アズナブルさえガンダムの性能と装甲の厚さに歯が立たず、新鋭機グフでガンダムに肉迫したランバ・ラルが「ザクとは違うのだよ、ザクとは」という名言を放ったように、ガンダムとは性能で、技能では埋められないほどの圧倒的な差のある機体だったはずだ。そしてそれは、翻案だからと言って安易に変えてはならない、作品の「前提」ともいうべきものだ。でなければ、主人公アムロの前に強敵として立ちはだかったはずのシャアやランバ・ラルがゴミくずのような存在になってしまう。
 「翻案」といいつつ、作品世界を成り立たせている前提さえ守っていないなら、これはよく似た別作品と思うしかない。

レビュー

 原作のガンダムとは別の作品と思って見たとしても、ツッコミどころの多すぎる雑な作品であった。作画は、もともと原作でキャラクターデザインと作画監督を務めていた安彦良和氏が関わっているだけに、見事に作画崩壊といわれた原作のリベンジを果たしている、といえる。加えてモビルスーツ戦の映像は、格段にリアルになっている。
 だが肝心のストーリーの方が、今度は崩壊してしまっていた。

(1)ブライトの作戦が間抜けすぎる

 アレグランサ島の残敵を掃討せよ。それがホワイトベースに与えられた任務であった。ガンペリーにガンダムとガンキャノンを各1機搭載し、島に上陸させて探索する、というのがブライトの命じた作戦行動だったと思われる。しかし、敵がいるとわかっている島に、いきなり上陸するのは無謀すぎないだろうか。まず偵察機を出して人工的な構造物の有無を確認し、港湾施設や滑走路などがあれば破壊しておくべきではないか。実際、島には灯台と桟橋があった。上陸するかとうかは別にして、真っ先に爆撃しておくべき設備だったはずだ。
 ところが、そこにはククルス・ドアンと子供たちがいることが「作り手」にはわかっていて、彼らがアムロと出会わないことには話が始まらない。ごく真っ当な戦術で作戦をスタートさせると、上陸前の爆撃でドアンと子供たちは命を落とし、話が始まる前に終わってしまう。灯台を爆撃しなかったのは、こうした事態を避けるためであろう。そうと気がつくと、すべてが嘘くさくなる。戦争を描きながら、真面目に戦争をしていないからだ。

(2)ぼーっとして、ほとんど話さないアムロがダメすぎる

 主人公はガンダムのパイロット、アムロだが、ブライトの命令が気に食わなかったのか、最初から不機嫌そうな表情でほとんどしゃべらない。上陸後、カイが呼びかける通信をわざと切り、ザクの足跡を追っていくアムロは何かに取り憑かれたかのようである。しかも、崖の下に気を取られてザクに後ろを取られてしまう。少なくともこの作品だけで見ると、とても「白い悪魔」と呼ばれるようなエースパイロットには見えない。

 何者かに助けられたアムロだが、ホワイトベースと連絡が取れなくなったため島に取り残されてしまう。しかし、危機感ゼロである。起き上がると、いきなり外へ出てガンダムを探し出す。主人公は「観客にとっての目であり耳」なのに、島の少女に「ここはどこだ」とか「君はだれだ、ここで何をしているのか」など、普通だったら誰もが口にする問いを発してくれないので、アムロの行動が描かれても、そこから何の情報も得られない。きっと彼は戦争しすぎて心を病んでいるのだ。そう思うしかなかった。

(3)島の子供たちがアホすぎる

 島はカルデラのある火山質のやせた土地、そこに20人の子供たちが自給自足の暮らしをしている。なぜ、ジオン軍の軍人と思われるククルス・ドアンとここで暮らしているのかは、よくわからない。原作知ってるならいいでしょ、という感じの説明の省かれ方である。

 アムロが来る前にも、連邦軍のジムが上陸してザクに木っ端微塵にされていた。戦時下ということは、子供たちもわかっていてもおかしくない。しかし、無邪気である。上陸したカイのガンキャノンに投石したことで、その存在が明らかになるのだが、石を投げたくらいで敵が退散すると本気で思っているのだろうか。相手はモビルスーツ、最新兵器で武装しているのだ。ドアンの回想によれば、子供らはモビルスーツに乗ったジオン軍兵士らに襲われて戦災孤児になったようだ。そんな経験をしているとすれば、モビルスーツが眼前に現れたとき、石を投げたりするだろうか。シェルターのような場所に避難するのではないか? 
 島にある唯一の発電機は灯台にあるが、敵に見つからないよう、ドアンは作動させないようにしていたようだ。しかしその理由も理解せず、電気がつけばいいのに、ケーキが食べたい、アイスクリームが食べたい、とわがまま放題である。もともとは敵だったはずのドアンに、なぜ心を許してともに暮らしているのだろうか? 20人もいるなら、彼に対する思いも一人ひとり違うはずだ。しかし、ヤギの乳搾りで大騒ぎする彼らに、そうした、戦時下の子供の複雑な内面を感じさせるような描写は何一つなかった。

(4)アムロ以外のホワイトベースの面々が弱すぎる

 軍法会議にかけられる覚悟で、スレッガー、カイ、ハヤト、セイラがアムロ捜索に乗り出す。しかし島に再上陸してみると、そこには、敵のモビルスーツ部隊がいた。そして、あっという間にやられてしまう。ガンキャノンは両足切断、スレッガーの乗ったジムはセイラの操縦するコアブースターの背中に乗ったまま着陸しようとするが失敗、その反動で地面に激突し頭がもげる。彼らはギャグ要員だったのだろうか。ホワイトベース側の被害は甚大である。おそらくこれでは、オデッサ作戦には来るなといわれるだろう。

(5)敵部隊がバカすぎる

 残置諜者からの通信を何者かが妨害している、妨害者を排除し島の地下にある核弾頭ミサイルを手動で発射させよ、とマ・クベ大佐から命じられ、サザンクロス隊というモビルスーツ部隊が島にやってくる。見るからに悪役っぽい5人組で、ほおにトカゲの刺青があったりして最高にダサい。もともとはククルス・ドアンが隊長だったが裏切ったらしく、現隊長はひどくドアンを憎んでいる。
 そのせいか、決着をつけてやるとばかりに、ドアンに対して一騎討ちを仕掛ける。相手は1機、しかもガンダムシールドをバターのように切ってしまうほど強いのだ。なぜ複数で連携して戦わないのか。一人ずつ順番にドアンと戦い、倒されていく姿は最高にバカっぽかった。ちなみに一人女性パイロットがいて、何やらドアンの元カノっぽい雰囲気もあったりしたが、特にこれといってドラマが語られることはなかった。

(6)で、ククルス・ドアンって何者?

 最大の謎は、ドアンである。彼は、マ・クベ大佐がここに配置した残置諜者だったのだろうか。コンピュータをハッキングして核弾頭ミサイルを無効化する、というのは、彼の任務だったのだろうか。
 彼はサザンクロス隊というモビルスーツ部隊の隊長だった。しかし隊員らを裏切ったようだ。では、彼は脱走兵なのか。脱走兵であり、同時に残置諜者である、というのは成り立ちうるものだろうか?
 島にいる子供たちとは、どこで出会ってどういう経緯で一緒に暮らすようになったのだろうか?子供たちを守りたい、という思いはあるようだが、ちょっと待ってほしい。子供たちを、敵が時折狙ってくる、軍事目標でしかない(地下に核弾頭ミサイルが配備されているのだ!)場所に孤立させ、自給自足生活を送らせることが、子供を守るということなのだろうか? 本気でそう思うなら、彼は子供たちを安全な保護施設へ引き渡してやるべきではないのか?
 なぜ、彼は島にやってきたジムは容赦なく撃破したのに、ガンダムは隠してアムロを助けたのだろうか。彼を生かし、ガンダムを残しておけば、味方になってくれると思ったのだろうか? しかし、そうすれば、連邦軍が彼を捜索するため再上陸するだろう。すると再び子供たちを危険にさらすことになるのではないのか。ひょっとしたら、自分がガンダムに乗り換えるつもりだったか、あるいは生活費を稼ぐためネットオークションに出すつもりだったのかもしれない。そうであったとしても不思議ではない。
 ククルス・ドアンは何者だったのか。彼がしたことは自分の意思だったのか、それとも任務だったのだろうか? 正直、よくわからない。だって映画の中に、彼の内面は何一つ表現されていないのだから。

なんで、こうなった?

 ファーストガンダムの中の1話のリメイクである。原作は、作画崩壊でさんざんネタにされ、見るものに笑いを提供してきたが、ストーリー自体はしっかりとしたドラマがあり、心を打つものだった。最終的にアムロは、ドアンの心情を理解し、戦場を離れてもなお戦うことを止められなかったドアンの戦いに、終止符を打つ助けをしたのである。

 映画化にあたって、きっと安彦良和氏は、ギスギスした戦争の話ではなく、モビルスーツが時代劇ばりのチャンバラをやって盛り上げる、コミカルでハートウォーミングな話として再構成したかったのだろう。腕利きの浪人が、たまたま立ち寄った村を襲ってきた悪徳侍らから純朴な村娘を守るため、大立ち回りを演じる。時代劇の定番のような話である。そこに、父にも母にも理解されず、家族から切り離されてしまったアムロが、ククルス・ドアンの形成した擬似的な大家族に招き入れられ、その心が癒される、というエッセンスが加わる。

 だが、原作がそうであるように、もともとガンダムは連邦軍とジオン軍の全面戦争という重苦しい現実の上に成り立っている作品である。原作では、ドアンと4人の子供しかいない島でさえ、アムロは「敵だ」と石を投げられる目に遭っている。戦争という現実が、人々を対立させているのである。
 しかし、それは「コミカルでハートウォーミングな、楽しい映画」とは相容れないものだろう。そのため、戦時下という重苦しい現実を感じさせない舞台として、ククルス・ドアンの島を理想化したのだ。実際には島でドアンとアムロが演じた大立ち回りで、サザンクロス隊は全滅してしまう。彼らにとっては悲惨な話だが、悪役はゴミのように踏み潰されてもいいのが、この世界なのだろう。

 しかし、その文脈に乗っていけない観客は、「一体何を見せられているのだろう?」と思いながら、滑ったギャグに顔をひきつらせるような気持ちで見るよりほかにない。安彦氏が本作を通して表出したかった世界と、受け手が「こういうものが見られる」と期待していた世界とが、ズレてしまっているのである。

どこを、膨らませるべきだったのか

 原作は24分でまとられたエピソードである。その中で、もっとも心を動かされる場面はどこだったか。島にザクが来襲してきたとき、ドアンは自分のザクで応戦しながらアムロと子供たちに向かって叫ぶ。
「教えてやる、少年たち。子どもたちの親を殺したのは、この俺さ!・・・俺の撃った流れ弾のためにな」

 原作はドアンについて多くを語らないが、この一言で彼の取る行動の理由とその内面を察することができるほど、これは説得力のある言葉である。ドアンは自らの放った砲弾で子供たちを戦災孤児にしてしまったことに良心の呵責を感じ、軍隊を脱走して子供たちの親代わりになってやろうと決意したのだ。
 ククルス・ドアンという人物の内面を端的に表現したこのセリフを、なぜ本作では削除してしまったのだろう。セリフでなくてもいい、ドアンの島での生活の原点ともいえる、このセリフで語られた場面をこそ、膨らませて描くべきだったのではないだろうか。
 子供たちの親を殺してしまい、子供も殺すよう命じられた彼が、一体どのようにしてジオン軍を脱走し、島に子供たちを連れてきたのか。そして親を殺された子供たちが、そんなドアンを許し心を開くまでには何があったのか。
 実はこのストーリーの中で、一番崇高な魂を持っているのは、親を殺したドアンを、親代わりとして受け入れてともに暮らしている子供たちなのである。ドアンの告白なくして、無邪気に振る舞う彼らの心情を想像することはできない。そしてそこに、私たちがまだ目にしていない、「ファーストガンダム」の風景が広がっていたはずである。
 作画崩壊の回をあえて取り上げ、美しい映像に作り直すなら、そこに、美しい物語を見たかった。

さいごに

 長々と語ったが、最後にこれだけは言っておきたい。アムロはドアンに「子供たちを守るために戦えるか、それが君の仲間であっても」と言われ、覚悟を決めてガンダムに搭乗する。それはいいとして、核のボタンを押し終えて退散するジオンの兵士にしたこと、この場面は必要だったのだろうか。ジオン兵は丸腰で武器もなく、ガンダムに背を向けて逃げていた。撤退手段もない島である。そんな兵士を、ガンダムで踏み潰す必要がどこにあったのだろうか。相手は投降することもできたはずである。もちろん、たまたま気づかずに、ではなく、アムロはその兵士を見て、わざと踏んでいるのだ。戦争犯罪ではなかろうか。
 荒唐無稽なロボットアニメに「リアリティ」を求めて40数年前に制作された作品だったが、それが今、リアリティから遠く離れた作品を残して幕を閉じた。その中で、妙にリアルで生々しい唯一の場面がこれだった。残念でならない。

<参考>
「機動戦士ガンダム」全話レビュー 第15話「ククルス・ドアンの島」


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