ヒロシマ ダイ・イン始まりの日
HIROSHIMA ダイ・イン 始まりの日
ダイ・イン(英語die-in)とは死亡している状態を模倣することにより行う抗議の一形態である。
動機としては、次のものが挙げられる。
1 戦争の防止または戦争への強い反対
2 存在する矛盾への注意喚起
3 致命的な技術への反対の表明
2017年8月6日広島の原爆ドームの前でのヒロシマ
ダイ・インの活動は続いている。全国各地で反戦反核の運動時にダイ・インが行われている
ヒロシマ ダイ・インとは8時15分の黙祷の時にニュースなどでTV画面に一瞬映る原爆ドームの前で横たわる市民のデモである。
きっと活動している彼らでさえ何時?誰が?始めた?
日本で最初に行われた被爆地ヒロシマでのダイ・インがそこにどんな思いがあって行われたかさえ知らないのが事実だろう。
この日本のどこかで行われているダイ・イン。
「あんな路上占拠する迷惑行為、誰が初めた?」
「どこぞの左翼の教師が子供たち洗脳するために始めたんだろ」
「宗教活動の一環としてだろ」
「どこかの政党が市民を利用してる政治活動の一環だろ」
いろいろな憶測によってその活動に込めた思いや本当の意味が歪まれていく
ここに当時のすべての活動が書かれた沢山の新聞記事や発信した当時のビラや手紙などの記録がまとめられているスクラップブックがある。
ヒロシマ ダイ・インは1981年にスタートし35年以上も経った
今でも続いている
当時ことや、活動に込められた本当の意味を一個人が始めた運動を直接、本人から話を聞いたことを踏まえ
私の主観を取り除き箇条書きにして事実だけをまとめ書き留めておきたいと思う。
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・ダイ・インを日本で最初に被爆地広島で展開した呼びかけ人は製薬会社の営業マンだったT氏、妻、男児2人を持つ 当時37才の普通のサラリーマンである
・広島勤務時代開業医の待合室にいた患者の老女の体に残る痛々しいケロイドを見てイデオロギー抜きで原爆許すまじの反戦運動を始める。
・被爆者の方たちに出会い、話しているうちに自分で何かできないか?
・営業の合間に一人暮らしの被爆者の家庭訪問をして
話し相手になるボランティアを始める
・市民グループ「平和を語る青年のつどい」に参加
・そんな思いから原爆ドームの前で8月6日8時15分に「倒れ込み」の運動を世界に核兵器廃絶のメッセージを送ろうと思いつく
・ニューヨーク反戦グループが1万5000人が路上で同様なデモが行われていたことを知り「倒れこみ」運動名称をダイ・インにする
・当時彼はリベラルな思想を持つ若者であり支持政党はなく支持宗教もない
・当時の自民党、 共産党、 社会党になどのいろいろな団体に宗教や思想や支持政党を超えて右左関係のないダイ・イン参加を呼びかけるが各々のトップが
ゴーサインを出さないと団体は動けない何もできない現状を知る。
・市民レベルでできることとしてスタートした。
・ヒロシマDie-inを呼びかける会代表として一人で始める
・「個人として参加してもらえる運動を」ということを始めた。
・広島市内でビラを配る。
・当時のビラの連絡先には彼の名前、自宅住所、電話番号が記載されている
・当時を振り返り家族を巻き込んでしまったこと息子(当時小学3年)には宣伝取材等受ける際の広告塔に利用したことを(ビラ配り、原爆瓦掘りに参加 ラジオ出演、TVニュースの取材)
悪かったと思っていると語っている。
・どこの宗教や団体や政党のバックアップもない市民レベルの平和デモなど当時は前例がなく、公安もどう警備していいかわからず公安警官にマークされる
公安の警察官は彼の働いていた会社にまで職務質問に訪れたという。
・「平和を望む」ということが政党や派閥や国や宗教が違っていても「人が戦争よって死ぬということは悲しいこと」その気持ちに壁はないということ、
核兵器というものは必要ではないという個人の思い
そんなことから個人が自分一人でもという気持ちから始めた運動である
・ボランティア活動をしながらたくさんの被爆者の人達から様々な意見を聞いた
・被爆者の中にも当時を思い出すからと抵抗感があるとの意見もあった。
・世界へ発信して!という被爆者の声もあった。
・いろいろな思いや葛藤を抱えながら当時37才のT氏が自分の信念を貫きそれに賛同し協力してくれた被爆者や市民の声があったから実現した運動である。
・1981年8月6日ヒロシマ ダイ・イン、初めの一歩は150人の参加者だった
・主催者発表など知らない彼は参加人数を数えておらず、変装して参加していた公安の警官達に参加者の
人数を教えてもらう。
・彼らが始めた運動から翌年全国各地で大規模な反核ダイ・インや反核の市民運動が広まっていった
・当時の新聞記事によると1982年3.21 ヒロシマ行動には19万人が参加。
・ヒロシマ行動に参加した有名歌手のライブ会場で
ダイイン発起人であるT氏に一緒にダイ・インやらないかと依頼もあったが「原爆ドームの前で小さくてもこの場所でやりたい」との思いで断りをいれた
(3.21ヒロシマ行動時の原爆ドーム前でのダイ・インには500人参加)
・5.23東京行動反核40万人が結集し参加者のダイ・インは代々木公園を埋め尽くした。
続く大阪行動には50万人が反戦運動に参加(当然ながら主催者発表や警察発表には隔たりはある)
・ヒロシマ ダイ・インの翌年、会社員であったT氏は北海道岩見沢市に転勤となる
・翌年行われた札幌大通公園での反核ダイ・インには主催側ではなく家族で一市民としてダイ・インに参加した
・北海道に転勤時10フィート運動でアメリカから買い戻した米戦略爆撃調査団撮影の記録フイルム
「予言」を自費15万円(当時価格)で入手して全道各地に貸し出し上映会を行う
・道内公立高校270校のうち93校で上映会が行われる
・現在、記録フイルム「予言」は意思を引き継ぎ活動をしている市民活動グループに寄贈されている
・1983年広島原爆資料館から資料を借りてここでも政党や団体から独立した市民発信による運動を全道各地の人に呼びかけ全道7カ所で原爆資料展を開催する
・反核運動が盛りあがるのは8月だけなことを危惧し
雪の中でもコツコツ火を消さず活動を続ける方法を模索する。
・広島で非核の家にワッペンを貼る運動があることを知り見本を取り寄せ1984年市民にデザイン標語を公募し手作りで「非核宣言の家」ワッペンを制作した
・ここでも市民レベルで実行委員会を作る
・ワッペンを貼るには「子供まで含めた家族全員が非核について話し合うこと」を条件として各家庭の玄関先にワッペンを貼る運動を始める。
・政党や特定の団体の規制を受けない独自の運動だったためワッペンやパンフレットの印刷代もないところからの出発だった。
・約3か月で市内に4千枚ワッペンが出回る。
・収益は映画会、講演会、スライド購入、活動費用に充てた。
・現在はT氏は北海道の山の中に居を構え74歳の現役でスキー板を担いで冬山に登り山スキーをしたり乗馬のインストラクターをしながら流鏑馬の世界大会などに参加しながら余生を過ごしている。
「当時、息子に自分の夢は国連で反核のメッセージを一市民の代表として英語で平和スピーチをしたいと伝えていた。振り返ると自分はとても若くて青くさい正義感に溢れていた時代だった。政党や団体等の援助を受けてデモをすると、政党や団体の規制の中で政策や広告塔として利用させられてしまいマスコミにちやほやされてとても残念で愚かなことになってしまう。
若い時の自分に調子に決してのるなよ気をつけろ!
と、言ってあげたい。
自分も含め仲間達も平和運動の素人でとても未熟であったが、ただ一市民として考えて行動することは決して悪いことではない。いろいろなことに対して己の信念を貫き最後まで行動し生きていきたい。
個人的な社会活動を続けマスコミに取り上げられても解雇せずに定年まで勤めさせてくれた会社や協力してくれた市民、仲間、妻や子供達 に感謝している」
と語っている。
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人はそれぞれの立場で、それぞれの思いや意見を持ち生きている
SNSもインターネットもない時代に呼びかけを発信することの難しさ、昨今のネット上でだけの賛同や、変えるべき論、批判意見や言葉だけの承認欲求発言するだけでは決してできない
行動でしか示せない意味や形がある
T氏の始めた活動が世の中を変えたかどうかは私にはわからない
ただ、今の形がどうであれ
現在も日本のどこかで行われている
「平和を願うダイ・イン」という形が
誰かに受け継がれ35年以上の間、今でも風化せずに続いてきたことに意味があると思っている。
発言だけではなく自らの信念に基づき行動するということがそれぞれの答えにつながっていくのだと
私は信じたい。