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小説を書いていると泣いてしまう話|雑記

私は小説、とくに人間ドラマ的なものを書いていると泣いてしまう。そういうのは私だけだろうか?

例えば、昨日は以下のショートショートを書いた。

たったこれだけの分量に関わらず、書き進めている際にティッシュが必要なくらいにはぼろぼろ泣いてしまった。

以下、小説の内容を含みます。

物語の内容としては至ってシンプルだ。

1. ある少女が真夏の時期に病気の母を亡くす。
2. 母の遺言を聞いた友人が、クリスマスの夜に”母”を演じて少女に会う。
3. 家に帰った友人は”いつまで夢を見せられるだろうか”(これは正しいことなのだろうか)と思案する。

まぁ物語としてはよくあるパターンではないかと思う。最後の描写に私の色が出ていると言えなくもないが。

以前にも書いたが、私は物語のプロットが完成するまで1文字も書かない。

だからこの物語もまずプロットを考えたわけだけれど、まぁその時点でわりと泣いてしまった。

物語に登場する少女の心情を思い描いてしまうのだ……いや、自分が少女になりきっているという感覚に近いのかもしれない。

母を亡くした事を”何でも無いこと”だと自分に言い聞かせる大人びた少女。

雪の降る寒い季節なのに、あの真夏のことを思い出してしまう少女。

温かい車に揺られながら帰った家で待っていた亡き母との遭遇。

泣きながら母に抱きつき、母の匂いに懐かしさを覚える少女。

来年にも会えることが分かり、希望を持ち直す少女。

ぶっちゃけ、この文章を書いている段階でも目に涙が溜まってしまう。昨日、十分に泣いたはずなのに。

そして、実際に文章に書き起こすわけだが、その段階でもっと泣いてしまう。少女の心をそのままトレースしたように感情の波が押し寄せてきて、母との遭遇の場面で大泣きしてしまうのだ。

この物語は最後に友人の視点へと移動するが、その友人の心情も強く感じ取ってしまう。

今はまだ夢を見せ続ける必要があると自分に言い聞かせる友人。

しかし、それが偽りでしかないことに対する迷いを抱える友人。

これでよかったのだろうかと考え、旧友につぶやく友人。

この時点ではもう泣かない。むしろ、一緒になって”これでよかったのか”という余韻に浸っているような感覚になる。

やはり、私は登場人物になりきって文字を書き起こしているのだろうか。

確かに私は泣きやすい、というより感動しやすい。

小説・漫画・音楽・アニメ・ゲーム・映画……あらゆるもので感動して涙を流してしまうタイプだ。本当に強く感動した音楽などは、脳内で最初の数秒くらい流せばもう泣けてしまう。

これは私が HSP であることと無関係ではないのだろう。

しかし、一方で私は”感動ポルノ”というのを好まない。

私は物語に何かしらの”欺瞞”や”嘘”を感じ取ると、もう感動どころの話ではなくなってしまう。この境界線がどこにあるのか未だによくわからないのだけれども。

さて、何について話していたのだろうか。

そう、小説を書いているときに泣いてしまうのは果たして私だけなのだろうか、という話だ。

note には、いや note に限った話ではないが、自分の考えていることをアウトプットして下さる人がいる。そして、それを読んだときに本当に強く共感することがある。

最近でいえば以下のような記事だ。

だから、というわけでも無いけれど、たまには自分の体験をアウトプットしてみようと思った。共感を得られる人が居るかはわからないが。

まぁ、そんな私の雑記である。

雑記につき校正は誤字脱字の修正くらいで。こういうのはうまくやりすぎないほうがいい。

―了―

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