健康第一|4,090字
それが人体に対して有害であるという研究結果が発表されたのは、それが発明されてから200年以上も経過した22世紀初頭のことであった。
その昔、人類は遠く離れた相手とコミュニケーションをする手段を持ち合わせていなかった。
それを可能にする技術が最初に発明がされたのは19世紀後半のことで、複数の研究者がその特許をものにするために研究を進めていたが、最終的に特許を取得して歴史に名を残すことになったのはグラハム・ベルであった。
それから100年以上経った21世紀の初頭に、A国において電話の発明者はメウッチであるという決議がされたが、未だに多くの人は発明者をベルとして認識していた。
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閑話休題。
そんなわけで『電話』が発明され、人々の生活に大きな変化を与えた。
しかし、技術の進歩とは恐ろしいもので、19世紀も残りわずかというところで無線通信という技術が発明された。今まで情報を送信するためには物理的なケーブルが必要だったのだが、自然界に存在している『電磁波』が発見されたことで、それを利用することで物理的なケーブルさえも不要になった。
無線通信はラジオから始まり、テレビ、衛星放送、といった形で人々の生活に入り込んできたが、もっとも多くの人々の生活に影響を与えたのは携帯電話の登場といえるだろう。インターネットの普及も相まり、21世紀の初頭くらいになると、先進国のほとんどすべての人が携帯電話を持つようになった。
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それはもはや生活必需品であると人々のあいだで認知されるようになり、21世紀も後半になると後進国においても殆どすべての人が持つようになった。割合でいうと地球全体の人工の99.5%ほどの人が携帯電話を所持している計算になり、それは事実上全員持っているといって過言ではない数字であった。
そのような状況であったが故、その研究発表が世間に与えた影響は凄まじかったであろう。
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J国に住む宮下は、携帯電話のアラームで目を覚ますと、寝床に居座ったまま携帯電話でニュースをチェックし始めた。
すると、とんでもないタイトルの記事が目に入り、気づいたときにはガバっと布団から起きだしていた。
『電波が人体に対して有害であると判明。携帯電話を利用する人々への影響は?』
その記事には、あらゆるモバイル機器が発している電波が人体への悪影響を及ぼす可能性があるとA国の研究者が発表したという内容から始まり、各国の政府および研究者はそれが本当に事実なのか裏付けを行っているという内容で締めくくられていた。
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最初、宮下は出来の悪いフェイクニュースかと思った。
しかし、その記事が信頼あるメディアから配信されていることが分かった。そしてニュース記事の一覧に戻ると、他のたくさんのメディアもこの件に関する記事を配信しており、これがドッキリなどでなければ事実であると認めざるを得なかった。
「おいおい、これから世界はどうなっちまうんだよ」
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それから宮下の生活は一変した、かと言うとそうでもなかった。
最初は世界中の人々がパニックに陥ったものだが、冷静に考えるとこれまでずっと電波の中で生活してきているわけで、少なくともすぐに体に影響を及ぼすものではないことに気づいた。つまり、X線とかと同じように『直ちに影響はない』というわけだ。
それでも世界的に権威のある研究者が発表した内容だったこともあり、人々は急に電波という見えない存在に対して不安感を覚えるようになってきたのも事実であった。直ちに影響はないとは言っても、体に悪いものがそこらじゅうを飛び回っていると考えると、否が応でも沈んだ気分にはなるものだ。
そして、この研究結果が何かの間違いであることを人々は心から望んだ。
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しかし、現実というものはいつだって非常なものである。各国の研究者がその内容について裏付けを行ったところ、人体に悪影響を及ぼすのは紛れもない事実だと結論づけたのである。
もちろん多くの人々の予想どおり、それはすぐに悪影響を及ぼすものではなかった。
その悪影響とは、電波を継続的に浴び続けると、将来的に『認知症』になる確率が上がってしまうというものであった。
この事実が世間に知れ渡った時、それにもっとも怯えたのは当然というべきか老人達であった。
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21世紀の初頭には『若年性認知症』という言葉も広く認知されており、老人に限らず若者でも認知症を患う可能性があることは世間的な常識にはなっていたものの、やはり認知症を発症するのは歳を取った老人に多いのは紛れもない事実であった。
21世紀の初頭ごろに生まれた彼らは、子供の頃から携帯電話に慣れ親しんでいて依存症というレベルで手放せない人も多かったが、さすがに自分が認知症になるのは恐ろしいと考え、多くの老人たちが携帯電話を手放した。認知症になってはソシャゲも出来ない、などとすでに認知症になっているのではと疑われる人も中にはいたが。
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それからJ国において、街なかでの電波を規制していく法案が可決された。
直ちに影響がないとは言え、人体に有害であると判明したものを、社会インフラとは言えそのまま放置しておくわけにはいかなかったのである。もちろん、それは後期高齢者社会において老人達の声をもっとも重視しなければならないという、政治的判断も大いに絡んでいるであろうことは国民の目からも明らかではあったが。
また、それを後押ししたのは『電磁波過敏症』を訴えるグループでもあった。
電磁波過敏症は、身の回りにある微弱な電磁波をあびただけで頭痛や吐き気などの症状とされていた。”されていた”というのは科学的根拠が無かったためであるが、なぜか症状とは無縁な一定数の人々もそれを信じていた。
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それは、携帯電話の通信規格が変わるたびに起こる一種のお祭りのような様相を呈していた。
「3Gはまだ大丈夫だったが、4Gはやばいぞ」
「5Gは4Gに比べて100倍も危険だ」
「6Gは子供の成長にも影響を与える」
といった具合に『今度のは本当にやばい』と騒ぎ立てられていたのだった。
この一連の流れについて「ボジョレー・ヌーヴォーの毎年の出来についてのレビュー」との関連性が認められるとして真面目に論文を発表した研究者もいたが、残念ながらイグノーベル賞は受賞できなかったようだ。
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閑話休題。
そうしたわけで電波の危険性を以前から訴えてきた連中は「だから、我々はずっと以前から危険だと訴えてきたじゃないですか」と、それこそ鬼の首を取ったような次第であった。たしかに人体に悪影響のある事実は判明したが、その内容は彼らが以前から訴えてきた内容とは明らかに異なっているものであったが、そのことは忘れて押し切ることにしたらしい。
しかし、これらのグループによる発信が世論に影響を与えたのは紛れもない事実であった。人は事実を含む発言には非常に敏感なのだ。
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そうして、少しずつ街なかでも電波が規制されるようになった。
最初の取り組みとして始められたのは、公共の場での携帯電話の利用の原則禁止であった。
その頃には WiFi もインフラとして整備されていたこともあり、無線通信を利用したければ WiFi が利用可能なスポットないし飲食店を利用して下さい、ということだった。携帯電話の通信に比べれば WiFi は無視できるほどの健康被害で済むことが分かっていたためだ。
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しかし、そんなものを守る人間はごく少数であった。
今まで湯水の如く利用してきたものを「今からは禁止です」と言われて、すぐにそれを飲み込めるような人間は少ない。人が習慣になった行動をやめるのは大変なのだ。
「ダメなのは分かってるけどさー、みんな使ってしいいじゃん」と渋谷の女子高生。
J国において、高速道路の法定速度は80kmになっているもののそれは事実上守られていない。そうしたことを考えると、”ルール的には一応NGってことにはなってるからね”ということで全員が納得していればそれで良かったのかもしれなかったが、老人や前述のグループからの苦情が殺到したために政府は規制を進めざるを得なくなった。
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各自治体は「ルールを守りましょう」というお決まりの文句の看板を各地に設置し、『これが守られないと自治体が提供している WiFi も止めることになります』という一種の脅し文句をそこに添えた。
それで効果が出たかというとそれは予想どおり微々たるもので、ほとんどすべての人々はそれまでどおりに携帯電話を使い続けた。
一部の自治体はそれが脅し文句でないことを示すために実際に WiFi を止めるところもあったが、それも効果はいまひとつどころか無いに等しく、それどころか「ルールを守らない人が居るせいで WiFi 止められた。ふざけんな」と各種 SNS に書き込む人が殺到して、それはかえって混乱を増長させたと言える。
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結局、人々の”良心”に頼ってもどうしようもないと気づいた政府は、公衆の携帯電話網を止める決断をすることになった。しかし、いきなり止めると騒ぎになるということで、最初は1日のうち1時間だけ携帯電話網を使えなくするという、悪影響を抑えるのに効果があるのか分からない地味な施策から始めることにした。
しかし、世論の反発は凄まじいもので、『自由を返せ』という大規模なデモ活動まで行われる始末であった。
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<政府の某部署にて>
「もう批判の嵐ですよ。これどうしたらいいんですか」と職員の一人。
「俺が聞きたいくらいだよ」と疲れ果てた表情をした上司。
「排気ガスだって吸い込みすぎれば健康に悪いけれど放置されてるじゃないですか。どうせ同じようにすぐに悪影響を及ぼすものではないんですし、いっそのこと規制をやめましょうよ。一部の声の大きい人達が騒いでるだけじゃないですか」
「仕方ないだろ!」と怒鳴りつつ上司は続けた。
「タバコに対しても同じように規制をしてきたのに、今さら電波だけ特別扱いできるわけないだろ!」
その部署の入り口のプレートにはこう書かれていた。
『J国政府健康促進課』
ー了ー
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