正しい朝焼けへの帰着

 何者でもない春を生きていた。行き先も分からずに、教えられた道順に従って。辿り着いた場所の正体も掴めずに、流されるままに日々を過ごす。それに何の疑問も覚えなかった。野花を踏んでも心は少しも痛まない。そんな時に視界を過ったのが彼女だった。

 彼女は最初、手近な所に成った林檎だった。軽率に近付いてその実をもぎ取った時、自分は彼女を生命だと見做していなかった。こちらを見つめる瞳に気付いたのはいつだっただろう。

 その瞬間、彼女は美しい鳥になって飛び立っていった。どこまでも自由で、縛られない力強さを持って。その羽ばたきで夜は明けていく。暗いところからそれを眺めていることしか出来なかった。

 今でも夜道を歩き続けている。ただ、朱鷺色《ときいろ》の朝焼けに焦がれながら。

 退屈な入学式を終える。外に出る人波に流されるまま排出された。講堂前広場には百人はいそうな上回生たちがひしめきあっている。

「入学おめでとうございます!」
 口々にそう叫びながら、満面の笑みでサークル勧誘のビラを配っている。強引に敷かれた花道は、彼らの勢いで狭まり、ひどく歩きづらい。渡されるというよりは、前に伸ばした両腕に次から次へと乗せられていくと言った方が的確だろう。圧倒されながらも、心底大学生活を楽しんでいる彼らを見て、嫌でも期待は膨らんだ。

 学内カフェで山のように積もったチラシを広げてみた。
「楸《ひさぎ》ー、何してるの?」
 高校からの友達である立木《たちき》が向かいの席に座る。
「よぉ、サークルで悩んでる」
「俺ジャズ研にするわー。可愛い先輩に誘われちゃって」
「……お前ジャズなんて聴くの?」
「馬鹿だな。あぁいうのは大体軽音系なんだよ」

 のぼせ上がって、可愛い先輩とやらの容姿について語っている。呆れるような動機だが、楽しければ良いのだろう。近くにいる女の子が可愛いに越したことはない。大学生活の彩りだ。
「お前も来いよ。きっと楽しいぜ」
「考えとくよ」
 そう言って席を立つ。桜が降りしきる構内を、鼻歌交じりに歩いた。

 四月の上旬、「部室棟ツアー」が開催された。ツアーといっても自由行動で、各々好き勝手に部室棟を見て回るのだ。
 
 しばらくぶらぶら歩いて、説明を聞いて回っていたが人混みに疲れてしまった。部室棟近くの掲示板の前で、缶コーヒーを飲んで一服する。はっきりしない天気で、厚い雲の切れ間から時折日が差した。暇に任せて掲示板を眺める。部活の紹介を書いたチラシが大半だが、学内イベント、学外イベントの情報も載っている。ふと、目が留まる。

『黒鍵次美《くろかぎつぐみ》講演会――フェミニズムとは何か』
 何か聞いたことがある名前だ。近隣の国立大学で行われるらしく、日時と時間が書いている。それより。フェミニズムという文言に眉を顰める。いつも何かに怒っていた、今は亡き祖母の顔がチラつく。あー、怖い怖い。苦い液体を飲み干して、ごみ箱まで歩く。

「こんにちはー」
 突然、横合いから話しかけられる。茶髪、ショートカットの女の子。「寺へ…」と書かれたプラカードを担いでいる。涼し気な目を細めて微笑んだ。
「……どうも」
「新入生?」
 にこやかに彼女は問う。華やかな容姿とギャップのある、澄んだ声だなと思う。周りの音がしんとするような、惹きつけられる声だ。

「はい、そうです」
「サークルはもう決めた?」
「いや、まだですね」
「名前は?」
「楸です」
「私は常盤慧《ときわけい》。楸君は楽しいのと楽しくないの、どっちが好き?」

 戸惑う。妙な勧誘の仕方だ。でもその瞳に見つめられるのは悪い気はしなかった。
「楽しい方が良いに決まってるじゃないですか」
「じゃあ、決まりね。うちに来なよ。絶対楽しいよ」
「どうしてそう断言できるんです?」
「私がいるから」
 不敵に笑って、彼女は歩き出した。髪から飛び出した耳に林檎のピアスがぶら下がっている。躊躇は一瞬で、すぐに彼女を追った。

 結局、概要も聞かずに「寺巡り同好会」へ入部を決めてしまった。大学のサークル選びなんてそんなものなのかもしれない。部員は約五十人、男女比はやや男子が多いくらい。月に一度寺を巡る以外、特に活動はない。後は部室で駄弁ったり、遊んだり、漫画を読んでいたりする。

 部長は誇らしげな顔で、「漫研よりうちの方が漫画あるよ」と言っていた。完全に謎だがありがたい。漫画は好きだし、今では入手困難な昔の漫画もちらほらと置いてあった。
 言わずもがな男女交際も活発。要は大学生活を面白おかしく過ごすための、ワイワイ系のサークルというやつだ。

「楸は誰目当てで入ったんだ?」
 男子しか部室にいないときに、そんなことを先輩たちに聞かれた。
「常盤先輩です」
 と即答する。こういうのは経験上、周りから固めていく方が早いしややこしくない。先輩たちの反応が変だなと思っていたら「常盤先輩!」と口々に言って吹きだした。

「お前も騙されたクチだな」
 部長曰くこういうことらしかった。常盤は一回生で、入学式の日に入部を決めたから、その後の新歓に駆り出されていたらしい。勘違いされている方がやりやすいと思ったのか、本人も特に説明はせず、彼女を憧れの先輩として入部した連中は多いらしい。
 
 騙された、と言っていいのか分からないが、恥をかかされたのは間違いない。顔に血が集まってくる。
「倍率高いぞー。まぁ頑張れや」
 周りは囃し立てるだけ囃し立てて別の話題に移ってしまった。悶々としながら、そぞろに話を聞いていた。

 新歓イベントとして、大学近所の寺社仏閣を巡って最後に飲み会をする催しが行われた。新入生の飲み代を先輩たちで折半するため、ほとんどの一回生が参加した。校門前に到着すると、すでにぞろぞろと人が集まり始めている。挨拶もそこそこに常盤の姿を探した。彼女はあまり部室に来ていないようで、最初に会った時から顔を合わせていない。
 
 黒いキャップを被ってオフショルダーを着た彼女を見つけた時、号令がかかった。円になって集合する。さり気なく常盤の横に陣取った。常盤は欠伸もかみ殺さず、退屈そうにしている。こちらに気が付く様子もない。
 部長が話し終えたタイミングで、彼女に話しかける。

「おつかれ」
「おつー。……えーっと、話したことあったっけ?」
 常盤はわずかに困惑の表情を浮かべる。周りはぞろぞろと移動を始めている。その流れに従う形で、並んで歩いた。
「楸。勧誘された」
「あー! あの時の」
 忘れていたのか。ふつふつと怒りが湧き上がってきて、ついきつい口調になってしまう。

「騙したろ」
「え、何が?」
「先輩だと思ってた」
「もしかして怒ってる? ずっとかしこまってたから言い出せなかったんだよ」
 悪びれもせず、そんなことを言う。その笑顔にほだされて怒りは行き場を失ってしまう。

「別にいいけど……」
「ごめんて。ジュース奢るよ、何が良い?」
「……コーヒー」
「おっけー」

 常盤は自販機でブラックコーヒーを二つ買う。二人で飲みながら歩いた。
「常盤はジシャブッカクとか好きなの?」
 ずっと苛々していても女々しいので、こちらから話題を振る。
「好きだよー。読んでる小説によく出て来るから」
「へぇ、意外。緩いサークルだから入ったんだと思ってた」
「そんな適当に生きてないよ」

 はっきりと言い切って、笑う。水を打ったような一言に何か違和感を覚える。他の女子と会話している時には感じないものだ。何だか少し、攻撃的なような。しかしすぐに常盤はいつもの柔らかい雰囲気を取り戻した。

「最近はなかなかイケてるよー。花手水とか。御朱印帳とか」
 色々とスマートフォンで画像を見せてくれる。確かになかなか凝っていてお洒落だ。水面を彩る鮮やかな花と、広がる波紋が何とも言えない美しさを湛えている。御朱印もデザイン性が高く、女の子が好きなのも頷けるなと思った。

「めっちゃお洒落じゃん」
「でしょ!? でもそれだけじゃないんだよ。全ての神社には縁起があって、ストーリーがある。そういうのを追いかけるのが楽しいんだよね」
「御朱印帳は単なるスタンプラリーではないと?」
「そういうこと。ゆめゆめ忘れぬように」
「承知」

 そう言って笑い合った。それから彼女は寺社仏閣について色々と教えてくれた。常盤は目を輝かせている。極端にパーソナルスペースが近くて、ボディータッチも激しい。かなり密着して歩くからいちいちドキドキしてしまう。至近距離でこちらを見る、生き生きとした瞳に見惚れてしまう。もうちょっと可愛らしいものに興味を持てばいいのにと思わないでもないが。

「今度一緒について行ってもいい?」
「いいよー!」
 よし、デートの約束を取り付けた。そう思うと有頂天になって、興味のない話を聞くのも楽しかった。
 

 
 夕方になって大学に戻って来ると、飲み会にだけ参加するメンバーが集まっていた。のそりのそりと三十人ほどのメンバーが、予約してある近所の居酒屋に向かう。
 店に着くと、食べて飲んでのバカ騒ぎだった。要領の悪いやつがイッキをやらされて、女子力を発揮して先輩の更に料理を取り分ける女の子がいたり、座敷の端の方で潰れているやつがいたりする。乞われて常盤も先輩のお酌をしていた。

 席替えのタイミングで常盤の隣になる。
「お、サギじゃーん」
 常盤は顔を赤く染めて肩を組んできた。
「なんだよそれ」
「楸って言いにくいでしょ。だからサギ」
「常盤も大概じゃない?」
「んー。あ、そうだ。じゃあトキって呼んでよ」
「……いいけど」

 キスができそうな顔の距離でそんなことを言う。
「私達、水鳥だねぇ」
 しんみりと彼女が呟く。トキとサギ。そう呼び合うことで特別な関係になれたようで嬉しかった。

 二次会に向かう行列でも、トキと並んで歩いた。
「トキあんま部室来ないよな」
『私がいるから』とか大口叩いて置いて、全然顔を出さないとはどういう了見なのか。嫌味のつもりで言った。

「バイトとか色々あって忙しいんだよねー。漫画とか小説とか、買いたいものいっぱいあるし」
 トキはそれに全然気付かず平然と答える。もしかしたら忘れているのかもしれない。
「……漫画は結構部室にあるけどね」
「まじ? あんまりよく見てなかった。じゃあさ、古いんだけど『月夜に待つ』あった?」

「あー、それはない」
「あれ、読みたいんだよね」
「それうちに全巻あるよ」
 大学の近くのボロアパートで一人暮らしをしている。漫画は相当量実家から持ち込んでいた。『月夜に待つ』は母親から譲り受けたものだ。一応名作という位置づけになっているのでコレクションに入っている。

「ほんと!?」
「うん。じゃあさ、このあとくる?」
 声を潜めてそう言った。自然に誘えたと思う。
「いく!」
 トキも調子を合わせて小声で、しかし快活に答えた。
 女の子を家に誘えたことにほとんど有頂天になっている。さぁ、楽しい夜の始まりだ。

 さり気なく列の後ろのほうに下がる。曲がり角のタイミングで、こっそり二人で抜け出した。誰にも気づかれていないことを確認すると、くつくつと秘密の微笑を共有した。意味深に交わる視線が、昂揚感を高めていく。路地をいくつか抜けて、部屋に辿り着く。
 振り向きざまにトキにキスをしようとする。

「なに、酔ってんの」
 口を手で押さえられる。色気のない仕草だなと思ったが、確かに順番を間違えた。
「付き合ってください」
 真っ直ぐに目を見て言うと、トキは突然笑い出した。

「いや、いやいや、何を、ふふ、いやいや」
「本気なんだけど」
「ないって。ちゃんと話したの今日が初めてじゃん。それに私、恋人いるし」
 トキは余裕そうな微笑を崩さない。こういうこと、慣れているのかもしれない。想定外の事態に呆然とした。あの目配せはサインではなかったのか。頭が真っ白になって、何とか絞り出したのは情けない問いだった。

「じゃあなんで付いてきたの?」
「漫画読ませてくれるんじゃないの?」
 呆れた顔でそう言い放つ。トキは靴を脱いで平然と中に入っていく。本棚を物色して日に焼けた畳の上に座る。訳がわからずそこに立ち尽くすことしか出来なかった。

 それ以来、トキは気ままに訪れるようになった。「サギは趣味悪いけど、お母さんはイケてるね」そんなことを言いながら、漫画を読んだりゲームをしたりして一緒に過ごす。

 決まってそれは夜で、泊まっていくこともあった。布団は一つしかないから、端と端、掛け布団を引っ張りあって眠る。トキの寝息を背中で聞きながら、この女はどういうつもりなのかとずっと考えている。いっそ襲ってしまえば何か変わるのだろうか。白けたトキの表情を想像すると、そんな気持ちも挫けてしまう。

 彼女は思い付きで食材を買ってきて料理を作ってくれた。肉じゃがとかオムライスとかではない。空豆とエビの炒め物とかキュウリの梅肉和えとか、居酒屋のメニューみたいな色気の欠片もないものだ。

 トキは僕を友達だと紹介するし、誰もそれを疑わなかった。確かに友達以上のことは何もしなかった。しかしそれにしても、火のない所に煙が立ってもおかしくないはずだ。というか立てよ。いいのかこんな大学生活で。

 トキはいつも友達に貰ったという、シャネルの何番だか本人も覚える気がない香水をつけている。彼女の不在時にふとその匂いがした気がして、眠れない夜が幾度とあった。焦れったい思いを抱えながら、一刻も早くトキが彼氏と別れることを願っていた。
 
 そんな折だ。いつものように夕方ごろになってトキが遊びに来た。ホットパンツから出た脚でクッションを挟みながら漫画を読んでいる。突然、何でもないように彼女は言った。

「こないださぁ、痴漢されたんだよ」
「え、なにそれ」
「初めてでさ。あれめちゃくちゃ怖いね。全然動けなかった」
「いやいや、待って。いつ?」
「んー、三日ぐらい前?」
 彼女があまりにも平然としているので心配していいのかも分からなくなる。

「でさ、怖いのも怖いんだけどね。それ以上に思ったの。なんか舐められてるなって」
「え、何が?」
「うーん全体的に? だってもし男に生まれてたら、そんなことされないわけじゃん? ネットで調べても痴漢を擁護する意見ばっかりなんだよね」
「確かに。男だったらまずないだろうね」
「でしょ? それについて考えてたらさ、今までのこと色々気になってきて。何となくこう、『男の子だから仕方ないよね』とか『男の面倒は女が見る』みたいな風潮あるじゃん。あれ普通に差別なのでは? って思えてきてさ」
「ん? うん」

 雲行きが怪しくなってきた。痴漢から差別の話は飛躍に思える。
「で、フェミニズム勉強しようと思って。講演会行ってきた」
 何か寒気がした。トキが悪い物に染められているような。何にでも文句を言って、SNSで喚いている連中とか。何かにつけて周りの男性に、難癖をつけてろくに家事もせずに仕事に明け暮れていた祖母とか。そういうものとオーバーラップする。

「よくわかんないけどさ」
 気付いたら口が勝手に動いていた。
「そんな格好してるから、いけないんじゃない?」
 トキの笑顔が凍ったのが分かった。だけど撤回しない。本当にそうだと思う。そんな露出の激しい服を着ていたら、魔が差しても仕方ないのではないか。自分のことを棚に上げて、男叩きをしたいだけに聞こえる。

「つまり私が悪いって言いたいの?」
「そこまでは言ってないけど」
「じゃあ謝って貰っていい? ムカつくから」
「……ごめん」
 釈然としない思いを抱えながらそう言う。何を怒っているのか分からない。悪いのはトキの方なのに。トキは携帯を触っている。しばらくこちらを見なかった。

 焼肉屋のバイトを終えて、部屋の布団に倒れ込む。深夜を回ろうとしている。まどろむ意識の中スマホが鳴った。気怠い体で画面を見ると、トキからメッセージが入っている。
『電話したい』

 返事をしようとするが、体がいう事を聞かない。しばらく放置していると、トキに対するもやもやとした感情が再燃してきて、ますます返事をしたくなくなる。いつの間にか意識は深い闇の底に沈んでいった。

 朝確認すると電話が一本だけ入っていた。かけ直すと三コール目でトキは出る。
「ごめん寝てた。電話なんだった?」
「あぁ、うん。大丈夫だよ」
 どこか放心した声でトキは言った。その声音には変な昂揚感のようなものが感じられる。少し気になったが、一限の時間が迫っていたので特に追求せず電話を切った。

 それからしばらくして、トキが彼氏と別れたらしいことを聞いた

 待望していた時がようやく訪れた。トキと会う約束をして、大学の帰りに合流する。抱えた花束には赤い薔薇を真ん中に据えている。彼女は会うなり爆笑した。
「え、なに。卒業式?」
 目元には涙すら浮かべている。

「トキ、付き合って欲しいんだ」
「サギ、私達友達でしょ? それに今そういうの考えられないから」
 それはそうだ。彼女のことになると、変に焦ってしまう自分がいる。
「分かった。でも受け取ってくれない? 流石に野郎一人の部屋には飾れないし」
「別に男の部屋に花があってもいいと思うけど」

 トキは渋々それを受け取って、一旦家に向かった。やけに高そうなマンションに入っていくのが少し気になったが、そんなことを忘れてしまいそうなくらい気分がいい。焦る必要はないのだ。これでいつでもトキと付き合うことが出来るのだから。

 居酒屋で飲んでから、二人で肩を並べて歩く。夜更けの散歩にはビールが似合う。缶を揺らしながら並んで歩いた。トキは少し歩きづらいくらい肩を寄せてくる。これが恋人の距離ではないことが不思議でならない。だから、気づいてしまう。違う匂いだ。

「今度はシャネルの何番?」
 ふざけてそう聞くと、トキはくすりとも笑わなかった。
「うん。正しい朝焼けへの帰着」
「え?」

 タダシイアサヤケヘノキチャク? そんな出鱈目な名前の香水があるのか、それとも何かの比喩なのか。トキはそれ以上なにも言わなかった。爽やかで柑橘系かと思うのだけれど、それにしては重厚さもあって――とにかく嗅いだことのない匂いだ。それは。例えるなら、昨日とは何もかもが変わってしまった朝のような――そんな香りだった。

 とても清々しい、満ち足りた顔をしている。その横顔を見詰めていると、何も言いだすことが出来ない。
「トキは、どこにもいかないよね?」
「さぁ? 明日の事は分からないし。ここでいいよ」
 トキは振り返らずに歩いて行く。夜が暗くてかなわないと思った。

 テストが終わって夏休みに突入した。暑さは日増しに激しくなる。バイト先の女の子から、トキが誰かと同棲を始めたという話を聞いた。
「え、別れたんじゃないの?」
「次の男じゃない? 社会人らしいよ」

 どういうことか分からない。トキの『そういうの考えられないから』という言葉や、この前見たタワーマンションとかがぐるぐると頭の中で巡る。それで混乱して、うっかり全部を話してしまった。

「それは、キープされてるでしょ」
「やっぱそう?」
「てか常盤さんは地雷だからやめときなって。相当遊んでるとか、おまけにバイセクとか色々聞くよ」
「なに、バイセクって」
「男も女もいける人。前付き合ってたのは女の子らしいよ」

 頭がうまく機能しない。情報量が多すぎて、つまりどういうことか分からない。そんな人間が本当に実在するのか。女同士でセックスになるのか、とか思考は脇道に逸れていく。意味が分からないまま、トキと会う。

「同棲してるの?」
 開口一番そう聞くと、いささか面喰ったようで気まずそうにしている。
「モズのことか……。仮住まいさせてもらってるだけだし、別に付き合ってはいないよ」
「付き合ってもいない男の家に転がり込んでるの?」
「言い方。モズはトランスジェンダーだから」

「なにそれ」
「LGBTとか聞いたことない?」
「おとこおんなのこと?」
「それ本当にやめて」
 トキは心底嫌そうな顔をする。

「いや、ごめん。よく分からなくて。そもそもモズ? っていうのは誰?」
「百々済律《ももずみりつ》っていう友達だよ。言いづらいからモズって呼んでるの」
 すごく嫌だ。せめて律と言ってくれたらどれだけ楽だろう。トランスジェンダーとか、変な言い訳にしか聞こえない。

「その人は男なの、女なの?」
「だから、男とか女とかじゃないの。モズは体が男性で心が女性なの」
「んー。オカマってこと?」
「違うって」

 トキは携帯を取り出して、写真を表示する。そこに写っているのは、胡散臭い笑顔を浮かべた成人男性だ。モードっぽい黒いシャツを着ている。この人の中身が女性であるなら、女性らしい服装をするんじゃないだろうか? どう見ても普通の男性にしか見えない。それにトキがバイセクなら、どのみち恋愛対象に入るのではないか? 
それと同棲は、二人が付き合っていることを簡単に結び付ける。

「ごめん、バイトあるから」
「ちょ、サギ!」
 小走りでその場を後にする。頭の整理が全然追いつかない。夕暮れに、ヒグラシが鳴いていた。

 バイトでミスを連発してしまう、友達と遊んでも全然気が晴れない。鬱々と夏の終わりを過ごしている。涼しくなった夜に出かけて、川の上流の小さなダムを無心で眺めるような、そんな日々を過ごした。トキとはしばらく会っていない。

 夏休みが開けて、授業が始まった。勉強に身が入らず、かといってサボることも出来ずに、引きずられるように講義を受ける。何で勉強しているのか分からなくなる。ちゃんとした理由があったはずなのに。
 夕暮れ時、全ての授業を終わらせて喫煙所で煙草を吸っていた。周りに人気はない。最近ペースが物凄く早くなっている。

 ふと、誰かが入って来た。何の気なしにその顔を見て、驚く。それは先日トキに写真を見せられた百々済という男ではないか。我知らず、話しかけていた。
「すみません、百々済さんですか?」
「ん? はい、そうですが」

 男は困惑した表情を浮かべる。煙草に火をつけてゆっくりと吐き出すと、何か思い出したようにこちらを見る。
「もしかして君、サギ君?」
「楸です」
 間髪入れずそう言う。

「あぁごめんごめん。馴れ馴れしかったね。慧から聞いているよ」
 百々済は柔和な顔を浮かべた。
「今日はどうしてここに?」
「知り合いのヘルプだよ。『心の相談室』ってあるでしょ。あそこの相談員代行」
「カウンセラーってことですか?」
「まぁそんなようなものだね」

 へらへらとした態度が気に食わない。どうしようもないほど苛立つ。
「未成年と異性の大人が同居してもいいんですか?」
「まぁ仮住まいだからね。一応両親とかマンションの管理者にも話を通しているし、法律にも触れてないよ」
「付き合ってるってことでいいですか?」
「いやいや。噂通りだね楸君」

 百々済はこらえきれないように笑い出した。
「身体的性別の違う者同士が同居したら、それは付き合っていることになるの?」
「なるでしょう。同棲ですよそれは」
「そうかぁ。君はやっぱりトキのことを何も分かってないんだね」
「はぁ!? あなたよりはよっぽど知ってますよ」

 大きな声が出てしまう。それが喫煙所に空しく響いた。
「うーんそうだな。君は以前慧に対して、痴漢されるのは露出の多い女が悪いって言ったらしいね」
「ええ、まぁ」
「例えばさ。君が木造建築に住んでるとして、放火に遭いました。これは誰のせい?」
「そりゃあ放火魔に決まってるでしょう」
「じゃあなんで痴漢だけ被害者のせいになるの? そんないかにもよく燃えそうな建物に住んでるやつが悪いんだよ。君が言っているのはそういうレベルの話だよ」

 何も言い返すことが出来なかった。
「慧のことを知ってるって言ったね。確かに肉体的な意味で限定したらそうかもね。君はセックスシンボルとしての常盤慧の一番の愛好者なんだから」
「どういう意味ですか?」
「自分で調べなよ。勉強するのが学生の仕事でしょ?」

 にこやかな笑みを崩さず、百々済は続ける。
「君は彼女の内面には全く興味がない。彼女のジェンダーすら正しく把握していないから、安易に彼女を傷付ける」
「バイセクシャル、じゃないんですか?」
「本人も最近まで勘違いしてたね。でも違うよ。彼女はアセクシャル。他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かない人なんだ」

 専門用語ばかりで意味が分からない。そんな価値観を受容してしまったら、滅茶苦茶になってしまうんじゃないか。少子化だって進むだろう。
「だけど冷たい人間ってことはないよ。友愛、家族愛の類はちゃんと持ち合わせている。ただ彼女の場合、性的に求められることに嫌悪感があるみたいだね」

「……傷付けたって言いたいんですか?」
「そうだね。それでも慧が君の側にいるのは、大切な友達だと思っているからだと思うよ」

 そこはかとない恐怖感が首をもたげてくる。何を見落としていたというのだろう。彼女を傷付けてしまったことは納得するしかない。でもそれが何故なのか、そこまで思考が辿り着けないことがもどかしい。
「混乱するだろうね。でも君は受け入れるしかないよ。そして勉強しな。残酷な答え合わせになるだろうけど、知らない間に二度と会えなくなるよりはましだと思うよ」

 ぼうっとした頭で、夜の町を一人で歩いている。居酒屋が集中して賑やかな区画にいる。コンビニの脇で介抱されている女性や、道端で寝ている中年男性がいたりする。考えて、考えて、頭がショートしてしまったのかもしれない。

 居酒屋の軒先に提げられた赤い提灯をぼんやりと眺める。ただ一つ、思い出したことがある。『勉強しな』という百々済の言葉。それを印象的なタイミングで、誰かに言われた。記憶の縄を手繰っていくと、手ごたえを感じる。あれは確か、中学生の頃だった。

 中一の夏、祖父が死んだ。喪主となった我が家に、通夜から大勢の人が詰めかけた。それが分け隔てなく人と接する祖父の人望を示しているようで、素直に感心する。通夜振る舞いや、弔問客のもてなしに母をはじめとする親類縁者の女性たちは、みな忙しそうに立ち働いていた。男たちは大広間で呑んだくれている。

 葬式の日、とても暑い日で、陽炎の向こうにアブラゼミが鳴いていた。母親に頼まれて親戚の子供たちと遊んであげていた。出棺の直前の頃、あの人はやって来た。
 それは誰も知らない女だった。三十路くらいだろうか。海外のセレブみたいなサングラスをして、白っぽい金髪。後ろと横を刈り上げた気持ちいいくらいのショートカットで、ワイドパンツのブラックフォーマルスーツを着ていた。その手にはフィルムにくるまれた赤いスターチスを持っている。

「暑くて参りますね」
 そう言いながらも涼し気で、芳名帳に名前を書く。『黒鍵次美』と書いている。
 受付をしていた女性たちは彼女の格好や、赤い花を見て、顔をしかめたが、黙ってそれを受け取った。彼女は焼香を済ませて、去っていく。
 受付に座っていた女の人たちが喋っている。

「ねえ、知ってる?」
「いや、見たことないわ。変な名前ね。偽名じゃない?」
「なんでそんなことするのよ」
「愛人とか」
「いやいやいや」
 そんなことを言いながら声を抑えて笑い合っている。

「捨てちゃいましょうよ。常識ないんじゃない? 葬式に赤なんて」
「そうね、どうすることも出来ないし……」
 違和感を覚えた。誰も知らないのだろうか。赤いスターチスが祖父と祖母の思い出の花であることを。プロポーズの時に祖父が渡したという話を聞いた。あの人はそれを知っているんじゃないか。

「庭に捨ててこようか?」
 気付けば言葉が口をついて出た。受付の人は顔を見合わせて一瞬悩んだようだったが、すぐにこちらを向いた。
「そうね、お願いできる?」

 走って彼女を追う。そう遠くには行っていないはずだろう。橋を渡る途中、堤防を歩く喪服の人影を見つける。
「あの!」
 声を張り上げると、黒鍵さんはこちらに振り向いて立ち止まった。堤防の階段を駆け下りて、彼女に追いつく。

「これ、捨てられそうになってたから」
 黒鍵さんは一瞬悲しそうな顔をした。
「そうか、残念だな」
「ごめんなさい」
「君が謝ることじゃない。ありがとう」
 黒鍵さんは優しく笑った。そして川に近付いていき赤いスターチスを流した。

「室町時代頃、遺骨に花を結び付けて、それを筏で流す風習があったそうだ」
「……おじいちゃんまで届くかな」
「届くさ。これは永久不変の花だ。褪せず、あの人まで届くだろう」
 二人でその花が流れていくのを眺めていた。

「おじいちゃんとはどういう関係だったんですか?」
「恩師だよ。実は君のおばあちゃんとも縁があってね。お二人に会わなければ、私は今の仕事を選ばなかっただろう。本当に尊敬しているし、感謝している。向こうで二人、安らかに暮らして欲しいものだな」
 
 遥か遠くの赤い点になるまで、流れていくスターチスを眺めていた。皆に愛される、おじいちゃんのようになりたいと思った。
「さて、じゃあ帰るかな。流石に二日も休めないし」
「もしかして昨日からこの辺りに来てたんですか?」
「あぁ、実はな。ただ通夜というのが嫌いなんだ。厳密には通夜振る舞いが。女ばかり働いているだろう? 気分が悪くなる」
「そうなんですか? 女性の方が料理は上手だし、そういうものだと思いますけど」
 黒鍵さんは困ったような顔で笑った。

「君は優しい子だから、あえて言うよ。もっと勉強して、世界や人を知らないと、今いる場所が当たり前だと思ってしまうよ」
 その言葉の意味は分からなかったが、その日からだ。勉強しなくてはいけないという強迫観念を持つようになったのは。

 思い出した途端、何かが繋がっていく。ただどうしてもピースが足りない。決めつけや固定観念が誰かを不自由にする可能性に思い至っただけだった。
 正しい朝焼けへの帰着。あの朝、彼女がいた場所はどこだ? 放心状態で満ち足りていたその世界は、どこまで飛翔すればたどり着ける?
 その朝は、遥か彼方だ。虚ろな頭で、ネオンが光る路地を奥へ奥へと進んでいく。

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