3年目の祈念日
前回に引き続き精神疾患、自死、自死遺族の思い、自殺企図、過食などへ言及のある記事です。いますぐにお読みにならずとも、あとでいくらでも読めます。お心のしんどい方、悩んでいる最中の方、自死遺族仲間を探していても、ご自身への負担になるのは遠慮したい方、どうぞ放っておきましょう。大丈夫、それは正しい判断です。
意外とあっさりしたもんだな、そう思った。
AEDによる除細動もしてもらっていたらしい。
おそらくパチ屋の店員さんによるものだろう。
パチ屋の立駐から墜落し、脳が露出していたにもかかわらず初動の救命救急は的確なものだったようだ。肘の骨も露出しており、まあ即死だったんだけどAEDでの除細動は行なわれたようだ。
「若い女の胸だからよかったなァ」とか何とか、下卑たオッサンの声が煙草の煙と一緒に流れてきたけど、そんなことを気にする余裕なんてなかった。
しかし今、わたしは落ち着いている。卑怯なほどに落ち着いている。3年前の今日、妻が感じていた苦痛の5万分の1すら悩んでいないのかもしれない。
結局は宗教は意味がないよね、とか宗教は気の持ちようで本当のところは根性論だよね、という人もいる。
ああ、妻に会いたい。
宗教が死後の世界を肯定する以上、自分が死ぬことには何らかの意味があると希望を抱かせる大きなファクターとなっている。
死後の世界を肯定することは、妻の完全な消滅を否定することだからわたしは宗教を選んでよかったと思う。宗教一世。苦手な人はブラウザバック。でも、黙祷のひとつやふたつ、1分間ならお時間お借りしてもいいでしょう?
いま妻は悩んでいる。
スーパーの開店を待って過食をするか、耳栓して寝込むか、それともコンビニスイーツにするか、とか。
9時になる。スーパーにはすぐには行かない。おそらく過食をした上で死のうと考えたのだろう。
新しくプレゼントしたユニクロの紺の暖かいパーカーはバッグと一緒に置かれてあった。クッションになるのを避けたのか、血で汚れるのを申し訳ないと思ったのか。
妻は腹ばいで墜落した。
顔もある程度は警察や納棺師の方によって整えられた。
納棺師の方に『奥様が日ごろ使われえていたお化粧品があれば、お持ちいただけますか』との依頼に際し、(普段使ってたのはこれとこれと、あとこれもやな……プチプラの底見えコスメ)と見繕ってお渡しした。すると納棺師さんはそれらの化粧品を少量手の甲につけ、ものの30秒程度で持参のパレットから色を調合し、妻の顔に死に化粧を施し始めた。
うれしかったなあ……思わず涙ぐんだ。介護ができなくなったら納棺師になりたいとすら思った。納棺師の方はジャケットを脱ぐと、下は半袖のワイシャツ。セレモニーホールの数ある職種の中でも特段、動き回るので長袖なんか着ていられないのかな。そう思った。
少し割けた人中も、折れた前歯も、陥没した眼窩も、割れた額も(こればかりは『帽子をお持ちください』と依頼されたけど)、そこらのメイクアップアーティストより上手いんじゃないかと思えるくらい、的確に、かつ迅速に動いてくれた。あの方たちにとっては、ただの死体。その死体に化粧を施すときにまず手を合わせ、恭しく色を置いてくんだからわたしの知る限りで最も礼を重んずる職業だ、と認識している。
ありがとう、Aya。さよなら、もう少し待っててね。
ん――やっぱり、思い出すと涙出てくるんだわ。もうAyaより年上になっちまったけど、こればっかりは仕方ないわ。
あっさりどころじゃねえよ。まだ自分の涙で溺死してるよ。
でも、心配しないで。
Ayaはもう十分苦しんだ。
これ以上は苦しまない存在になった。
だから、苦しむのはおれだけでいい。
だれもいない部屋に向かって『Aya? 嘘、いるの?』とか、返事を待ったりしても、それはそれでいい。
『葬送のフリーレン』っていう作品があってだな。Ayaのことを覚えている人が、Ayaのことを語り継ぐ人がいる限り、Ayaはまだ生きている。生き写しじゃない。生きている。
例によってAyaの曲を引き合いに出して終ろうか、3年目の節目を。
Ayaのチャンネルで一番新しいものです。
障害者福祉、障害者就労支援に一方ならぬ思いを持ち続けていたAyaの遺志を継ぐ曲です。
別に追悼の意味もない、そうかもしれない。でも故人が生きており、障害者福祉に傾注しているとしたらこの曲は外せないなと思い、公開します。
『信じる勇気』
作詞作曲歌唱伴奏:浅野結実(藤代亜矢)
動画:事務K
黙祷。
またお会いしましょう。