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寛容さという罠について


「寛容さに隠された権力」について語るジジェク。



いまの親子関係、教師と生徒の関係は、多かれ少なかれジジェクが指摘するような関係になっていて、つまり、大人の欲望を子供が呑み込むことで、子供が自分の意志で行ったことがそのまま大人の欲望を叶えるということが多すぎる。(私のこれまでの3冊は、全てその権力性への批判があります。)

これに関して、私が日ごろ子どもたちと関わる上で意識していることは、子どもに言葉の裏を読ませないということ。

ふざけてる子や居眠りしてる子に「そんなふうなら帰っていいよ」と指導者が言うとき、多くの指導者は本当に帰っていいとは思っておらず、実質はその言葉を聞いた子の態度が是正することを求める脅しである。

でも私が「帰りなよ」と言うとき、意味ないからマジで帰って休んだほうがいいと思って言うので、子どもはこの人マジで言ってるじゃんとなって、帰るかどうかの選択は本当に本人次第ということになる。(実際に帰っても何とも思わない。)

当然ここにも非対称の関係性を前提とした暴力性はある。でも言葉の裏を読ませて従わせるよりマシである。

大人が子供の心を包囲してしまえば、子供が自分の意思を叶えるようなしかたで、大人は自らの願望を叶えてしまう。こんなに残酷なことはない。

だから、そんなことは基本的にやってはいけないのだが、
でも、たまに敢えて意図的にやることもあるかもしれない。伝家の宝刀として。

(2022.12.24)

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