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富雄丸山古墳発掘調査現場の一般公開に行ってきました(前編)

前回の記事はこちら↓

はじめに

 現地説明会シリーズ第3弾は奈良県奈良市丸山の富雄丸山とみおまるやま古墳です。厳密に言えばコロナ禍の影響で学芸員による説明は行なわれない形式のため現地"説明会"ではないのですが、便宜上そう書かせてもらいます。

 現説シリーズ第1回・第2回とかなりマイナーなものでしたが、この富雄丸山古墳に関しては皆さんも一度はニュース番組やネットニュースで耳にしたり目にした方も多いのではないでしょうか。
1月26日、この富雄丸山古墳から今まで国内でも類例のない盾の形をした銅鏡である鼉龍文だりゅうもん盾形銅鏡や日本で見つかった鉄剣では最も長い2m67cmの蛇行剣だこうけんが発見されたというニュースが列島中を駆け巡りました。

 いずれも国内で生産されたものであるとのことで、当時の金属品の鋳造技術の高さをうかがえる出土品であり、すでに将来の国宝候補であると目されています。

 発掘現場の公開が28日・29日の2日続けて行なわれるとのことで、流石にこれほどの大発見があった現場には足を運んでおかなくては必ず後悔するだろうと思い1月29日の早朝から電車に乗り込み奈良に向かったのでした。

富雄丸山古墳とは

 富雄丸山古墳は奈良市の西端で生駒市との市境にほど近い富雄の地に4世紀末頃築かれた円墳であり、墳丘の直径109m円墳の中で日本最大を誇ります(2位は埼玉県 丸墓山古墳の105m)。墳丘は3段築成で葺石や埴輪が存在し、墳丘北東部には造出しが付属します。
また、この地域周囲は古墳が少なく、隣接する2号墳及び3号墳や、近隣の宝来山古墳やその陪冢以外には目立った古墳が存在しない古墳過疎地域です。

 明治期に大規模な盗掘に遭っており、その際墳頂の粘土槨(穴に木棺を埋め、その上を粘土で覆って密閉した埋葬施設)からは三角縁神獣鏡3面を初めとした豊富な遺物が掘り出されました。

天理市天理参考館で展示されている富雄丸山古墳出土とされる三角縁神獣鏡
同上
同上

 1972年に団地造営のための発掘調査、そして2018年からは史跡整備に向けた発掘調査が行なわれており今回の調査は第6次調査とのことです。

発掘現場

 近鉄京都線で大和西大寺駅、そこから近鉄奈良線に乗り換え学園前駅で下車。本当は学園前駅から古墳まで行く定期バスに乗れるはずだったのに凡ミスで駅の降り間違いをしてしまい出発時間に遅れてしまいました。いきなりテンションがどん底になりながらも学園前駅のバス停で15分ほど待っていると、発掘現場一般公開で多くの人が来ることを見越して増発しているらしい古墳行き臨時バスが!!定期バスは各駅停車だけど臨時バスは古墳直行なのでこっちの方が結果的に良かったのかもしれません。

 後ろの席に座っていた大学生くらいの2人組が「今回の盾形銅鏡は行燈山古墳の濠から見つかった鏡の模様が付いた銅板と何か関連があるっぽいよね」とディープな古墳トークに花を咲かせているのを、(こいつ……できるっ!)と感心しながら盗み聞きしていると10分ほどで古墳最寄りのバス停に到着。

すごくぬかるんでいる

 数日前に降っていた雪の影響か、受付のある市民グラウンドはぬかるみにぬかるんで湿地のようになっていました。手指の消毒とパンフレットを受け取って人が群がっているテントに向かうと、今回出土した鼉龍文盾形銅鏡と蛇行剣の実物大模型が置いてありました。(蛇行剣の模型は写真ではなく簡単なイラストだったので撮っていません)

今回見つかった鼉龍文盾形銅鏡の実物大模型
同上のX線写真 鼉龍の文様がよくわかる

 隣のテントには今までの調査で発掘された円筒埴輪が展示されていましたが、中でも目を引いたのは鰭付き円筒埴輪です。鰭付き円筒埴輪は円筒埴輪の両サイドに魚の鰭のような装飾が付いた物で、主に畿内の大型前方後円墳などで見られるレアな円筒埴輪です(有名な例で言うと兵庫県 五色塚古墳)。

右側が鰭付き円筒埴輪
左右に鰭のような装飾が付いている

 そしてもう片方の普通の円筒埴輪には線刻が刻まれていました。

円筒埴輪の下段中央に四角い線刻が見える

 四角の文様の中に斜線や鋸歯紋のような文様が画かれており、なんとなくですが古墳時代の盾に画かれている文様のようにも見えます。

大阪府 黄金塚古墳から発見された盾のスケッチ 調査報告書より

 そもそも円筒埴輪は古墳の上に列を成すように配置することで古墳を聖域化する意味や邪悪なモノを古墳内に入れさせない退魔の意味を持つとされています。そういう意味では円筒埴輪に鰭を付けて埴輪と埴輪の間をガードすることや盾のような線刻を刻むことで、円筒埴輪それ自体に盾のような効力を付与する意味があったのかもしれません。

 そうしてグラウンドを抜けるといよいよ富雄丸山古墳です。既に人が30人くらい並んでおり、混乱や密になる状況を避けるため10人ひとかたまりで案内するとのことで待つこと5分ほどで順番が来ました。

富雄丸山古墳遠景
写真右側中央辺り、こんもりした灰色のシートの上あたりに今回発掘された粘土槨がある

Y発掘区

写真左側中央あたり、斜めに走る石の列が墳丘裾

 最初に見えてくるのはY発掘区です。この発掘区からは墳丘東端の墳丘裾が検出されました。さすが墳丘径109mの古墳だけあって墳丘裾が待機列で見えていた墳頂からかなり下の所にあり、いきなり心の中で感嘆の声を上げてしまいました。

上方から見たY発掘区

X発掘区

 Y発掘区から少し登るとX発掘区が見えてきました。この発掘区からは墳丘1段目テラスとそこに立て並べられた円筒埴輪列、そして2段目斜面が検出されました。

円筒埴輪が隙間なく並んでいる

 上の写真の円筒埴輪の密度を見て下さい。1段目・2段目・墳頂全てにこの密度で円筒埴輪が立て並べられていたとすると、すべて合わせた円筒埴輪の数は相当なものと推察されます。一般的に埴輪の数は被葬者の権力の強さと考えられているのでこの古墳の被葬者は生前相当な権力を持っていたのでしょう。

U発掘区

第5次調査で発掘され修復された湧水施設形埴輪とそれに伴う遺構
イメージ図
湧水施設形埴輪が置かれていた高まりは2段目斜面から生えており、手前側は溝で区画されていた

 U発掘区では第5次調査で発見された湧水施設形埴輪ゆうすいしせつがたはにわの周囲を発掘し、テラス部分より1段高まった造出しのような遺構が検出されました。この造り出しのような高まりは墳丘2段目斜面に取り付いており、その高まりを区画して強調するように南東側(写真では手前側)に溝を掘り込んでいました。

 そもそも湧水施設形埴輪とは何なのでしょうか。それにはまず囲形埴輪かこいがたはにわというものから説明しなければなりません。

囲形埴輪のイメージイラスト

 囲形埴輪とはその名の通り囲いの形をした埴輪です。1体のみで囲いを表すもの(上のイメージイラストのようなもの)や、プランターのような長方形の埴輪をいくつか方形に配置して囲いを表すものなどに分かれますが、埴輪の中ではレア埴輪で一部の古墳から発掘されるに留まります。この囲形埴輪ですが、当初は何を表しているのかよくわかっておらず、囲いの内側に家形埴輪を伴う事が多いので儀式の場や豪族の居館を囲う塀を表したものなのではと考えられていました。

 この囲形埴輪の謎を解明したのが三重県にある宝塚1号墳と大阪府にかつて存在した狼塚古墳から出土した囲形埴輪です。両者の古墳から見つかった囲形埴輪の中央には樋形土製品ひがたどせいひんが、宝塚1号墳の別の囲形埴輪からは加えて井戸形土製品も見つかりました。樋形土製品とはその名の通り「(ひ、とい)」を表した土製品で、「」とは「雨樋あまどい」とも呼ばれるように水をある場所へと導く水路のような設備のことです。これを井戸形土製品と合わせて考えると囲形埴輪とは水が湧き出る井戸や水を流す樋を内蔵する施設を表した埴輪であると考えられるのです。

 稲作が始まった弥生時代以降、水は非常に重要かつ神聖なものでした。古墳時代には水にまつわる祭祀が頻繁に行なわれ、それを執り行うのが権力者の役割でもあったと考えられています。
3世紀後半から4世紀にかけての大規模遺跡である奈良県纏向遺跡をはじめとし、5世紀前半から中頃の遺跡である同県南郷大東遺跡からはこれらの囲形埴輪に酷似した覆屋とその内部に木製の樋が配置された導水施設遺構が発見されており、5世紀後半から6世紀初頭にかけての豪族の居館跡として著名な群馬県の三ツ寺Ⅰ遺跡には井戸や日本最古の水道橋を含む導水施設遺構が見つかっています。

 ただ、このような遺構で執り行われた水にまつわる祭祀が具体的にどのような祭祀であったかはまだよくわかっておらず、水の神に対する信仰や豊穣などを祈願したマツリ説、もしくはもがり(遺体をしばらく埋葬せずに安置して死者との別れを惜しんだり、腐敗していく遺体を見る事で死者の完全な死を確認する古代の葬送儀礼)を含めた葬送儀礼説(平安時代の書物 令集解には殯の際はまず遺体を水で清めると記されている)、はたまたトイレ説(このような遺構の下流の土から寄生虫の卵が見つかるケースがあるため)なども存在しています。

 今回富雄丸山古墳から発見された囲形埴輪は、内蔵する家形埴輪の内部が2箇所に区画されていたり、樋形土製品が発見されていないなどのことから井戸を伴う神聖な施設なのではないかと考えられ「湧水施設形埴輪」と名付けられています。もしかするとこの湧水施設埴輪から湧き出た水を流す導水施設埴輪もまだ見つかっていないだけであるのかもしれません。
 神聖な井戸を覆屋で覆いその周りを垣で囲っている実例としては、伊勢神宮の外宮が管理する上御井神社下御井神社などがあり、井戸が実際に信仰や祭祀の対象になっているケースといえます。

 この湧水施設形埴輪を伴う遺構はマツリ説に拠れば富雄丸山古墳の被葬者が生前執り行っていた祭祀を表した遺構だと考えられますし、葬送儀礼説に拠れば富雄丸山古墳の被葬者が亡くなったときを再現しているとも考えられます。この遺構が何を表しているのか、夢と想像が広がりますね。

墳頂

墳頂の墓坑上部

 そこからドロドロになった急斜面を慎重に登るとようやく墳頂に着きました。墳頂部にある粘土槨は明治期の盗掘でほぼ破壊されてしまっていましたが、1972年の調査では約7mの長大な割竹形木棺が据えられていたと考えられ、盗掘の際に壊れてバラバラになった武器や鏡、石製品の破片などが検出されています。

墳頂からの眺め 晴れていたこともあって見晴らしが良い

 ここからメインの造出し部の粘土槨見学に移るのですが、2号墳と3号墳の見学や感想・考察など含めて色々書きたいのでそれは後編に回します。更新をお待ち下さい。

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