教室では教育虐待がまかり通っている。


前回の記事では、教員と芸人とで大きく異なる点について考察しました。

そこでは、教員の場合は「こちら側の努力が無くとも対象者が集まって来てくれる」のに対し、芸人の場合は「こちら側が何かしらの努力をしないと対象者が集まって来ない」ということを述べました。

今回は、上記のことが、現場でどのような作用を及ぼしているのか、について考察します。


教員の場合、対象となる相手は子どもです。

子どもは、「具合が悪い」など 余程の事情が無い限り、学校に行かねばなりません。
子ども達は、毎日、学校へと足を運び、割り振られた教室に行き、先生の授業を受けることなります。

子ども達は、何のために学校に来ているのかというと「勉強をするため」です。

授業を受ける際は、お行儀良く振るわねばなりませんし、しっかり勉強をしていないと、先生に注意されたり、叱られたり、怒られたりします。
たとえ、その授業が面白くなくても、分かりにくくても。

決して、反発・反抗することは許されません。

そして、次の日もまた学校へと足を運ぶのです。

本人が望もうと、望むまいと、行かざるを得ません。


一方、芸人の場合、対象となる相手はお客さんです。

お客さんは、特別な事情が無い限り、「絶対に劇場に行かなければならない」ということにはなりません。
お客さんは、自分が行きたい時に劇場へと足を運び、芸人のネタを観ることになります。

お客さんは、何のために劇場に来ているのかというと「笑うため」です。

ネタを観る時は、最低限のマナーこそありますが、「絶対に笑わなければならない」というきまりは、ありません。もちろん、笑っていなかったからといって、芸人に注意されたり、叱られたり、怒られたりはしません。
もちろん、ネタが面白くなければ、分かりにくければ、堂々と笑わないで過ごすことができます。

何か物申したいことがあれば、ライブ終了後のアンケートに自分の感想や意見を書くこともできます。

その人達のネタを「また観たい」と思えば、次回のライブに足を運びます。

誰かに「行かされている」のではなく自らの意思で「行く」のです。



ここで、もう1度、教員と芸人とを比べてみます。

本人が望む・望まないに関わらず、「何かしらの努力をせざるを得ない状況」にあるのは、一体、どちらでしょうか。

きっと、多くの方が、「芸人の方が努力せざるを得ない状況にある」ことをご理解頂けるのではないでしょうか。

教員の世界でも、教育団体や研究会、もしくは、書籍等で自主的に学ばれている方など、日々学ばれている方々が、世の中に大勢いらっしゃいます。

そうした方々にとってみたら、教員として、日々努力し、学び続けることが当たり前であり、学び続けることが、子ども達にとって有益であり、それが教育のスタンダードであることは、自明の理です。

ところが、多くの教育現場では、このことが全くスタンダードになっていないように思うのです。

教員現場では、授業中、お喋りをする子がいたら、多くの先生は、その行為を「問題行動」と価値付けをし、注意・叱責をします。

自分の授業に何かマズイところがあったのでは?とは、なかなか考えられません。

そもそも、「自分の授業が面白かろうが、つまらなかろうが、分かりやすかろうが、分かりにくかろうが、子ども達は黙って話を聞くのが当然だ」という神話が、教育現場には根強いように思えるのです。

お笑いのライブ会場では、ネタ中にお喋りをする人がいたら、多くの芸人は、お客さんの行為を「問題行動」と価値付ける前に、自分たちのネタに何かマズイところがあったのでは?と考えます。

説明するまでも無い話ですが、「自分達のネタがつまらなくても、分かりにくくても、お客さんは笑うべきである」とは考えません。

もし、そんなことがまかり通るなら、もはや、それは「お笑いライブという名の拷問」です。

しかし、教育現場では、この拷問に近いことが平気でまかり通っているような気がしてならないのです。

教員が子ども達に

「授業中なのに、なんでお喋りするんだ!!」

と怒るのは

芸人がお客さんに

「ネタ中なのに、なんで笑わないんだ!!」

と怒るのと一緒です。

教員が職員室で

「あの子達、何度言っても分からないのよ」

と愚痴をこぼすのは

芸人が楽屋で

「あのお客さん達、何度面白いことをやっても、笑わないんだよ」

と言っているのと同じです。

笑わないのは、お客さんのせいではなく、芸人の笑わせ方に問題があるのと同じように、何度言っても分からないのは、教員の教え方に問題があるだけ、のはずです。

しごく単純な論理のはずです。

ところが、教育現場では、そのような単純な論理が働いているように見えないのです。

もちろん、「退屈な話でも、つまらない話でも、黙って聞く」という忍耐力をつけることも教育的に必要なこともあるでしょう。

その場合、意図的にそういう場面を仕組んでいるのであればいいのです。

しかし、実際は、自分の指導に何かが間違っていることに気がつかず、ただ単に、子どものせいにしているケースが多いように見えるのです。

「教育虐待」というのも、ここら辺りの論理から発生しているのだと思います。

このように、対象者の反応に対しての価値付の仕方が大きく異なるのが、教員と芸人の相違点の1つだと言えるのではないでしょうか。

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