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130試合中69試合登板で壊れた肩…元プロ野球選手・権藤博の“教えない教え”の源流・・・という記事の紹介です。

実は、権藤さんの事はあまり知らなかったのですが、あるラジオ番組を視聴していた時のゲストで権藤さんがお話をされていて、選手時代の話や大リーグの指導方法を垣間見てきた時の話を聞いて、すごい人がいる!自分の理想のリーダー像そのものの人がいる!と思って興味をもって調べました。

1961年(昭和36年)、中日ドラゴンズに入団した権藤さんは、入団3年間で130試合登板69回を挙げる。

しかし年間の試合数の半分を超える登板で故障を抱え、プロで9年、投手としては5シーズンで引退。一方、指導者としては中日、近鉄バファローズなどで投手コーチを歴任した。

また、横浜ベイスターズの監督として日本一に輝き、投手コーチを務めた2017年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本代表の準決勝進出へとつなぐなど、輝かしい実績を残してきた。

東海テレビ

プロ野球選手時代の頃を権藤さんはラジオでこんな風に語っておられました。
『当時の監督は、戦場に駆り出された人たちばかりで命を懸けて野球をやってきた人たちだったから、野球が出来る事以上に大切な事などない、みたいな感じだった。』というような事を仰られていたように思います。

連投連投の試合で肩を壊す事になったそうですが、時代背景としてそういう環境があったんだなぁ・・・確かに戦場で死んでたかもしれないという体験をした後だったら、身体を壊そうがどうなろうが、野球できる事自体や、一試合一試合に全力で向き合う事って当然になりますよね。
明日死ぬかもしれないんだから、あとの事を考えて温存する・・・なんて発想にはならないだろうと思いました。

中日のルーキーとして、このとき4試合目にしてすでに2勝を挙げていた。4番の長嶋茂雄さんを中心とした強力な巨人打線が相手でも、跳ね上がるような投球フォームで堂々と立ち向かい被安打3で完封勝ちを飾った。

そのピッチングは読売ジャイアンツ(以下、巨人)にも衝撃を与え、元プロ野球選手で現在は福岡ソフトバンク球団会長の王貞治さんは「すごい人が入ってきたと最初は感じました」と振り返った。

当時、巨人に入団してプロ3年目だった王さんの打順は2番だった。

王さんは権藤さんを「その頃は手も足も出ない。権藤さんの球にキレがありました。フォークボールが近づいてくるのではなく、遠くへクッとくるので、バットの先に当たると空振りになったり。今そういう球を投げる人は多いですが、当時はほとんどいなかったので、“魔球”みたいな球でした」と評した。

868本塁打の不滅の記録を持つ“世界の王”と権藤さんとの対決は通算11本塁打24三振。2人はライバルだった。

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ラジオでは、この当時の王さんの事を簡単に討ち取れるバッターだとおっしゃられていましたが、そのスイングの思いきりの良さを見て、これから伸びる選手だと思ったそうです。また、当時の王さんは一本足打法ではなかったとの事で、そういうのも面白いなと思いました。

4月は8試合、5月は11試合、6月は10試合、7月は雨で試合が中止の翌日に完封勝利、その翌日に雨と移動日を挟み、完封勝利を挙げ、再び雨と移動日を挟み先発、次第に、その連投に次ぐ連投は「権藤、ゴンドウ、雨、ゴンドウ、雨、雨、ゴンドウ、雨、権藤」と呼ばれるようになっていった。

当時の権藤さんの活躍を王さんは「本当にチャンスがあるときは絶対に投げてきます。3試合のうち2試合を投げたり。優勝するためには選手の寿命のことを考えるよりも、勝つためにすべて使えるものは使う、そういう時代でしたから」と話した。

この年の中日は、72勝56敗2分でセ・リーグ2位。そのうちの35勝をルーキーの権藤さんが挙げ、69試合に登板。新人王は勿論、最優秀防御率や最多勝利、最多奪三振と当時のタイトルを独占し、沢村賞を受賞した。

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ルーキーで35勝とかすごいですね。
選手の寿命など度外視した起用で、そういう時代で活躍して肩を壊して引退してしまうわけですが、だからこそ指導者としても活躍できたような気もします。

稲尾さんは1957~59年(昭和32~34年)に3年連続30勝を挙げるなど、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた西鉄のエース。

「格好良い、ああなりたい」と憧れる稲尾さんを徹底してマネすることから始まり、磨き上げた直球と大きなカーブは、複数の球団の目に留まり、憧れだった巨人との交渉に進んだ。

ドラフト制度が導入される以前の当時のプロ野球は、選手の獲得は自由競争だった。

「巨人の代表は『君は絶対に欲しいから、条件を言ってくれと。他より高く出す』と言うんですが、自分がどれくらい評価されているのか分からない。他よりと言われても300万円なのか、500万円は出さないだろうとか思ってしまうわけです」


金額提示のなかった巨人に対し、中日は700万円を提示。ちなみに、この当時のサラリーマンの平均年収は約30万円。

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”真似る”という事の重要性がここでも語られているように思います。
何事も真似る事が最初のステップだと思います。
そこから自分のモノを見つけていく、それが見つかるまでは徹底的に真似て実践して自分なりのモノにしていくしかないと思います。それは、どんな事でも同じく通じる事だと思っていて、介護現場での仕事も同じと思いますし、僕自身、いい取り組みを見たり知った時は必ず真似する所から入ります。

あーだこーだ考えて悩んでてても実際に実践してみない事には身に付きませんから、特に自分なりのやり方がないのであれば真似るのがいいと思います。

そして、カッコ良い、ああなりたい、と後輩から思われる先輩になれるかどうかも大事で、そういう介護職が少しでも増えれば、業界の空気も変わってくると思います。

本当は巨人に行きたかったのに中日の提示が具体的だったのでそちらを選んだというエピソードも面白いですね。
コミュニケーションのすれ違い、自分が本当に必要とされているのかどうかわからないから迷ってしまう感じは、日常的なコミュニケーションのミスマッチからいろいろな摩擦が生まれる現場の状態と似ているな、と思いました。

他人に物を伝える時は、具体的にが鉄則で、共通言語である数字で伝えるのがいいですね。
互いの言葉が共通言語になっていて”ちゃんと伝わる”状態であればそのちゃんと伝わる共通言語でもよいですけど、そこまで行きつくには相当な時間とよりよい関係づくりが出来てないと難しいと思います。

日本がオイルショックに見舞われた1973年(昭和48年)に、34歳で中日の2軍投手コーチに就任する。ここから権藤さんの「指導者」という新たな野球人生が始まった。自身の現役時代の経験から選手の痛みを理解し、寄り添うことに努めたという。

そして自費で訪れたアメリカのルーキーリーグで、のちのコーチングの礎となる出来事と出会う。

現地のコーチの「Don’t over teach(教え過ぎるな)」という指導哲学。

これを目の当たりにしたとき、権藤さんの心に衝撃が走ったという。自らの現役生活で経験した絶望の時間と、この体験がのちに「教えない教え」という独自の指導哲学の形成につながっていく。

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ラジオでは少し違った感じのエピソードを仰られていました。
1年目の新人が凡フライも取れないようなプレーをしていて、指導者になんであんなプレイヤーがいるのか、と聞いたそうです。
そうすると帰って来た返答が『彼は1年目のルーキーだ、あれでいいんだ。』というような事を言って、その後すごく丁寧にボールの追い方や取り方、太陽をグラブで隠してキャッチする方法などを丁寧に教えていたそうです。

新人だから新人として教えるべき事はきちんと教える。
ただ、来年も同じだとやっていけない。だからちゃんと成長するように教えるという文化を見聞きして衝撃を受けたとおっしゃられていました。

「できないから教える。知らないから教える。でも、日本の野球はレベルが高いので、できない人や分からない人もいないんです。なので頑張り方を教えた。『あなたはこの球で勝負しなさい』『この速さで勝負しなさい』と。それを教えるのがコーチの仕事」

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できないから教える、知らないから教える。
当たり前の事ですけど、日本人って自分が知っていて出来る事は他人も出来て当然と思う節がありますし、現場に出ていれば出来て当然、という見かたをしてしまいがちです。

ちゃんと教えたのか。
教えるというのは、その人がちゃんと出来るようになるようにしてあげる、という事だと思っているので、指導者が一人よがりで教えたつもりになっている指導方法で教えました、というのは指導・育成とは違うのだと思っています。

そして、ある程度のレベルで出来るようになったら、今度はそれぞれの強みを活かして伸ばしてあげる指導や助言を行う事で、成長していくわけですし、そういう指導者や助言者からの客観的な言葉が、自分では気が付かない長所やスキルを引き出してくれる事もあるわけで、そういう視点をもって人を指導する事が、指導者やリーダーのあるべき姿だと思います。

1981年(昭和56年)、8年間の2軍投手コーチを経て、中日1軍投手コーチに就任してからは、当時の近藤貞雄監督のもと、投手分業制を確立。先発、中継ぎ、抑えと近代的な継投理論を提唱し、投手寿命を延ばすことに力を注いだ。

「選手の痛みが分かるのは、3年目から苦しんで挫折を味わったから。それがコーチとして生きた」と権藤さんは言う。

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自分はこうだったから、といって同じように無理をさせるのではなく、自分と同じ経験をさせないように仕組みを変える、これってすごい事だと思います。
介護の現場でも、自分の時はこうだったから、といって何も変えようとせず今まで通りを通そうとする人は多いですが、自分の経験でこれはこうなるからこう変えた方がいいとか、そういう工夫が出来る人が上に立たないと組織やチームの成長は難しいですよね。

こういう風土がつくれなかった現場が多いから、介護現場の人手不足が深刻になっているのだとも思っています。

今までがこうだったから・・・。
現場のルールと変えようとした時に必ずといっていいほど出てくる反対意見の多くがコレです。なんの根拠もなく改善もない。
悪く言えば何も考えてないわけです。
現状の処遇や人手不足について、そういう思考停止状態が招いた結果であるともいえると思っているので、まずは現場のこういう感覚から変えていく必要があると思います。

結構変えてきている事業所も多いので、既に自然淘汰されていく流れにはなっているとは思うのですが、そういう現場で優秀な職員がつぶれたり退職したりするのがもったいないので、一刻も早く改善してほしいですね。

1試合でも敗れるか、引き分けるかで、西武の優勝が決まるため、近鉄が優勝するには連勝するしかなかった。

吉井さんは「特別な1日でした。2つ勝てば優勝というゲームで、2試合とも投げさせてもらったんですけど、血が沸騰するくらい興奮しながら投げました。そんな中でも権藤さんは『負けたらこっちの責任だからどんどんいけ!』としか言わなかったんです」と振り返る。

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これが指導者ですよね。
現場の事は現場の職員を信じて任せる。
結果の責任は自分が負うから自由にやれ。

現場の選手や職員が能力を発揮できるのって、のびのびと挑戦できる環境が大きいと思うんですよね、リスクにチャレンジできるような感じ。

そして、任せたからには真っ向勝負で全力でぶち当たってこい、という感じですよね。
ここで中途半端な事をされると腹が立ちます。
信頼したからには失敗を恐れずに挑戦してほしいですし、そういう挑戦できる環境をつくるには、リーダーが本当に責任をとってくれるという信頼感がないと無理ですよね。
互いに信頼できる関係づくりが出来ているからこその指導方法ですし、こうあるべきだと思います。

「教えない教え」を実践し、さらに「オレを監督と呼ぶな、権藤さんと呼べ」と指導した。

1998年のシーズンが開幕し、権藤さんの教えは野手陣へと伝わり、リーグトップの打率を誇ったタレント揃いのマシンガン打線で中心を担い、サイクル安打を史上唯一3度達成したロバート・ローズさんは「最高のボス」と慕った。

ローズさんは「タレント揃いのメンバーが集まったチームだと権藤さんは感じていたと思う。そして、彼はメンバーをのびのびプレーさせた。良いチームの良い監督はそういうものです」と当時を振り返る。

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きちんと結果を出せる能力があるチームだからのびのびと任せる。
もし、教える必要がある状態であればしっかり教えた上でこういうチームに育てていく。そういう事だと思います。

チームの醸成状況に応じた育成方法を使い分けていた。
それを見極める観察眼というか、よく選手を見ていたんだと思います。

リーダーとしてチーム全体を俯瞰でとらえる事も重要ですが、個々のプレイヤーがどういう個性でどういう長所があって、どういう所が弱くて、それをチーム全体でどうフォローできるか、というのが見えてないと出来ないと思いますし、それがリーダーに求められる能力だと思います。

そんな投手陣の象徴だったのが、絶対的なクローザーであった佐々木主浩さん。「(権藤さんは)ブルペンにずっといますけど、無駄なことは言わない。『任せた』で終わりです。打たれようが、何しようが『お前に任せたから』という感じでした」と笑った。

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こういうのカッコイイですね。
任せた上での結果だからどんな結果でも納得できるわけです。

こういう風に任されると、任された人は奮起しますよね。

こうして77歳にして侍ジャパンのユニフォームの袖をとした権藤さん。ここでも権藤さんは、小久保さんも舌を巻くほどの手腕を発揮した。

「印象に残っているのはオランダ戦です。予想通りの乱打戦になり、こっちが5点取ってもすぐに追いつかれるので、1イニングでも早く千賀(滉大)につなげたかった。けれど、権藤さんは『監督、こういう乱打戦は誰が投げても一緒です。経験がある平野(佳寿)にいかせましょう』」

そう小久保さんに助言し、実際に平野投手(当時はオリックス・バッファローズ、2020年はシアトル・マリナーズでプレー)を登板させたことで、試合の風向きが変わった。

だからこそ小久保さんは「もう1イニングいきましょう」と権藤さんに言ったというが、「監督、そこが甘いんです。この展開でスパッと帰ってきた平野の仕事はこれで終わりなんです。この次が千賀なんです」と返されたという。

そこから試合は投手戦へと変った。日本の準決勝進出へとつないだ試合でもあった。


小久保さんは「驚きのオランダ戦でした」と振り返る。

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流れを変えるという言葉がありますけど、仕事でもこういう流れってありますよね。
僕自身、それを読む事が出来るとは思えませんが、そういう流れが見える人には見えているんですよね。

監督に忖度する事なく、スパッと”そこが甘いんです”なんて言えるこの人はとんでもないな、と思いましたが、こういう助言者をそばに置けるかどうかもリーダーの資質だろうと思いました。

1998年に佐々木さんと最優秀バッテリー賞をもらった谷繫元信さんも「選手を守ってくれる方でした。ピッチングコーチのときも監督のときも。選手側に立ってくれる」と語る。

“ハマの番長”こと、三浦大輔さんは「ピッチングで攻めて貫けと。逃げの投球をしてベンチに戻ってきたときには権藤さんから怒られた印象があります」と笑う。

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それだけ一人ひとりの事を見ていたという事ですし、ほめて伸ばすだけではなくて、逃げたりしたらちゃんと怒る、そういうのが重要ですよね。

だからリーダーはちゃんと見てないとダメなんだと思うんです。

この記事が、少しでもリーダー・指導者さんの参考になれば幸いです。



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