見出し画像

【短編小説】どら焼き

晴天に恵まれて、この街は運が良い。

新聞にでかでかと掲載された祭りの全面広告を眺めながら、平沢環ひらさわ たまきはそう思った。
全国的にも有名なとある大名が、初めてこの地の城に入城したことにちなんだ一大行事。メインイベントである行列には有名な俳優・女優が出演し、さらに一般公募から選ばれた美女たちや愛らしい子どもたちが公道を練り歩く。消防団員による梯子登りやまといの演技、地元の和太鼓やマーチングバンドの演奏が人々の熱気を高めていく。テレビ中継はもちろん、最近はSNSでも盛んに取り上げられる、地元民ならだれもが知る祭りだった。

屋外の行列にはうってつけの、日差しの心地よい青空を窓から見上げながら、しかし環の心はどこか暗く低いところを漂っていた。

「成人式までは、うちにるけんね」

去年の暮れ、母が言ってくれた約束を思い出すたび、環は胸のあたりがざわついた。うそつき、うそつき、うそつき……。念仏のように呪いの言葉を垂れ流しつつ、やけに手広くなってしまった我が家のリビングの板床に独り溜息をついて横たわる。

リビングの机にある鍵付きの抽斗ひきだしには、まだ白くパリッとした離婚届が物々しく封印してあった。あれ以来、父は押し黙ることが多くなった。もともと饒舌なたちでなかったけれど、それがさらに悪化した感じだ。黙りこくることに飽きてくると、きまって録り貯めた深夜アニメの消化に忙しくなる癖があった。環は両親の不仲を長いこと観てきた経験上、娘が口出ししないほうが無難だと感じとり、事務的な手続きを手伝った以外は諸事をばっさり切り捨ててしまった。

諸事を切り捨てれば、ちょっと心が軽くなった。その分だけ、家族にとって大切なものを捨ててしまった罪悪感がこびりつき、離れなかった。

環は冷蔵庫をあけて、水曜の特売で買ったどら焼きをぱくつき始めた。当然甘いには甘いが、何かが物足りない。安っぽいあんこと生地でカサついた口腔内をコップの水で潤すと、もう時計は午後二時を指していた。
簡潔に身支度を整え紐の長いショルダーバッグをかつぐと、冷蔵庫のとびらにある「環」とマジックで書いた磁石を「外出」の枠に動かして家を出た。ちなみに「洋二」の磁石は「出勤」の枠に貼ってある。「美波」の磁石は半年前から鍵付きの抽斗に申し訳なさそうに眠っている。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

環はウォーキングが好きだった。二時間くらいの距離なら楽々踏破できるほど体力には自信があった。だから歩いて三十分ほどで到着する文学博士のお宅は小学校の通学路程度にしか思っていない。「寿」と墨書された表札のわきにあるインターホンを押して、環は来訪を告げた。

「環ちゃん、いらっしゃい。主人は二階にいますよ。お祭りの日にまで来てもらって、嬉しいやら申し訳ないやら」

「かまいません。私、お祭りは中継しか見ないし、つきあってる彼氏とかもいないんで」

奥さんが「まあまあ」と微笑みながら通してくれる。物腰のやわらかさに惹かれて、将来自分もこんな女性になれたらな、と漠然と憧れを覚える環だった。だから今さっき、「中継しか見ない」と些細な嘘をついてしまったことが、早くも悔やまれるのだった。諍いの絶えなかった平沢家では、祭りの中継を一緒に楽しむ機会なんて、ほとんど皆無だったから。

二階の部屋は空調が効いており、円形に置かれたソファに男性が腰かけていた。環を大学のゼミで指導してくれている、文学博士の寿岩男ことぶき いわおだった。彼は慣れた手つきで椅子を勧めた後、65インチの4Kテレビの電源をつけた。

「あ、中継」

環は自分の嘘を指摘された気になって顔をそむけたが、事情の知らない寿博士は懐かしげに行列の人々を眺めている。ちょうど消防団のパフォーマンスが始まったころで、沿道の観客から拍手と歓声が上がった。

「昔、結婚して間もない頃に行列を見にいったことがあってね。当時はテレビなんて買えないほど貧乏だったから、いっそ家内が本物を見たいと言い出したんだ。自分から希望を言うなんて珍しいと思っていたら、その日は僕の誕生日だったんだよ。あれには僕も参ったね。どうしても二人で祝ってみたかったんだと、後でネタ晴らしされたさ」

「まあ、そんな昔話、環さんには退屈でしょ」

やや顔を赤らめて奥さんが笑う。そんな二人の様子を、環は複雑な心境で聞いていた。

「いえ、とても、憧れ……ます」

躊躇いがちにやっと言った。微妙にうつろう彼女の表情に、寿博士は思うとこがあったのか、次につづく言葉を慎重に選んでいる様に思われた。博士は、環の家庭について詳しく聞かなったが、そこに並々ならぬ闇が潜んでいることを経験から感じ取っていた。環のほうも、世間の流行に流されずに研究に打ち込む博士に親しみを感じて、徐々に接点が増えていった。博士のお宅に遊びにいくようになったのも、環からの申し出であった。

「最近はセクハラ防止とかうるさいからね。むやみに女の子を家に上げるわけにはいかないよ」

初めは断っていた博士だったが、「私がお邪魔するときは奥様と同席させてください。それなら問題ないでしょ!」と図々しく食い下がる環の熱量に圧されるかたちで了承した。会話を重ねるうち、どうやら環は純粋に博士の学問や思想に興味があるようだということが、だんだん博士にも判ってきた。

「今週のゼミも、とってもおもしろかったです。千年も昔に作られた物語が、時を超えて解釈を変えながら受け継がれていくという話」

博士は楽しそうに頷く。環の邪魔をしてはいけないと思ったのか、奥さんはお茶を出した後、さりげなく一階に下がってくれた。

「ありがとう。いまの子にしては珍しい反応だ。短く、速く、簡単に。が何でも良しとされている時代だからね。僕の話みたく、長く、じっくり、難しいことなんて、だれも興味ないと思ってたよ」

「先生の語り口がいいんです。子どもの頃に物語を聞いてワクワクしたような、懐かしい心地よさがあるんです。あ、先生のご専門は中世文学ですから、物語らしくなるのは当然ですよね。ごめんなさい」

博士は手を振って微笑むと、突然まじめな目つきになって言った。

「物語、といったけれど。君は、どうしてこの世に物語が存在するのか、考えたことがあるかね」

あまりに突飛な発言に、環は目を丸くした。

「どうして……って、当たり前すぎて、考えたことなかったです。ええと、ううんと……おもしろいから、でしょうか」

寿博士は「悪くない回答だね」と頷きながら、熱っぽく語りだした。

「物語は、それ自体はお腹もふくらまないし、お金になるものじゃない。でも、おそらく人間の有史以来、物語が死に絶えたことはなかったはずなんだ。ひとつとして変わらないものがない世界で、これは何故なんだろうと、僕は若い時分からずっと考えてきた」

環は博士の核心に触れかけている現実に身震いした。

「物語の《物》とは、一体なんだろうか。そう考えた私は、日本語には《物》がつく言葉が多い事実に気がついた。本物、物腰、物心、物怖じ、物のはずみ、物になる、物足りない、物々しい、物すごい……」

流れる大河のごとくあふれ出る言葉の羅列に、環は息継ぎするのがやっとだ。それらはすべて、あまりに自分たちの生活の中に溶けこんでいて、意識すらしない言葉になっている。しかも、「物」の一般的な意味である「物体」、英語で表すところの「object」とは異なる次元の概念を指す言葉ばかりなのだ。

「僕たち日本人は、目に見える物体以外の概念――とらえどころのない、簡単に言葉にできない、人間の力が及ばないものに《物》という語をつけるんだ。もっと古い時代なら、物の怪、物忌み、もののあはれ、などの言葉が確かな説得力をもっていたんだ……。おっと、ここまで来れば、君も気づいたかな?」

環は身体中に鳥肌が立つのを止められなかった。

「《物》という言葉の真の意味は、人間の目には見えない《霊魂》……《魂》と呼ぶべき概念を指している、ということですか!?」

「素晴らしいよ、環さん。では、最初の質問に戻ろう。なぜ《物語》がこの世に存在するのかな?」

環は逸る気持ちを抑え、かみしめるように答えた。

「《物語》は、《魂を語る》こと……。人間はだれしも、自分の内に秘めた《魂》を語りたいという望みがある。この世に人間が生きているかぎり、《魂》が消えることはない。だから《物語》は終わらない!」

お茶を一息に飲み干す博士を見て、環は及第できたことを知った。
しかし、議論で気分が高まった後は、反対に嫌な家庭の現実を思い出して、暗澹たる気分に戻ってしまった。
博士はまじめな顔になって、まっすぐ環を見つめた。無言の励ましが、とても深く温かく心の奥にしみわたり、気づけば涙が止めどなく溢れ出した。

環は半年の間に家庭で起きた出来事を一気に話し終えると、ちょっと気分がすっきりした。博士が一般論的な返事を述べたり、変に怒ったりしないことが、かえって有難かった。だから、半ば愚痴っぽい口調で父に対する不満がこぼれた。

「うちの父親、還暦ちかくにもなってまだアニメ漬けなんですよ。今回の離婚だって……。どんだけ子どもじみてるんだか、娘として恥ずかしいですよ」

「そうかい。きっと、許せない気持ちや、複雑な事情があるんだろうけれどね。でも、僕は大学でいろんな人を見てきたから、お父さんのこと、割とおもしろい人かもしれないと思っちゃうな」

「第三者のお立場だからそう思うんです。家族はたまったもんじゃないですよ。一日中アニソンが流れててうるさいし、あの声優が良いんだとか作画がどうのとか、マニアックな話ばっかでつまんないし」

寿博士は高らかに笑った。

「たしかに家族は大変だ。でも、不満を言いながら君は、どこか楽しそうにも見えるんだけど、僕の気のせいかな?」

環は返答に窮した。父親のアニメ談義には辟易しているはずなのに、頭のどこかでそれを楽しんでいる自分の存在に、気づかないわけにはいかなったからだ。

「君は、有難くも僕の文学ゼミを熱心に聞いてくれる。それはきっと、どうしようもなく《物語》が好きだからだよ。その《好き》という気持ちは、どこに根差しているんだろうか」

環は幼い頃の記憶を甦らせていた。珍しく父が買ってくれた絵本のこと、父によく市内の図書館に連れていってもらったこと、父が楽しげに観ているアニメを横にくっついて一緒に観ていたこと。

とめどないフラッシュバックの海のなかで、いつしか英語の先生が教えてくれた言葉が聞こえてきた。

「《animal》・《animism》・《animation》。これらの単語には共通して《anima》――《魂》という言葉が宿っています。私たちは、たとえ目に見えなくても、そこに宿る《魂》に共鳴し、感動し、好きになれる素敵な感受性をもっているのです。――あなたたちが大人になっても、どうか忘れないでくださいね」

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

帰り支度をしながら、環は寿夫妻に深々とお辞儀をした。

「今日は本当にありがとうございました。また、遊びに来ます」

「いつでもいらっしゃい。僕たちも良い時間を過ごせたよ」

夫妻は丁寧に極上品のどら焼きを手土産にもたせてくれた。もう一度お礼のお辞儀をすると、環は大きな歩幅で帰路についた。

家に到着すると、先に父親が仕事から帰っていた。休日出勤だから早めに終わったようだった。相変わらず押し黙って、作業着のままリビングに寝転がってテレビをつけている。祭りの行列は終わったらしく、主演の俳優・女優がほっとした表情でインタビューに答えていた。

「中継、観てたんだ」

言いながら、不思議な気持ちになる。環は自分の感情のゆらぎを悟らせないよう、どうして後に帰った娘が家事するんだと普段の不満を述べつつ夕飯を作りはじめた。
博士宅で思い切り泣いたせいか、途中で空腹に耐えきれなくなり、もらったばかりのどら焼きを頬張った。そしてまたびっくりした。あんこの甘みが、安物とは格段にちがう、深みのある味わいだったからだ。

「美味しいどら焼きには、あんこに職人さんの《魂》が詰まってたりするのかな」

自分でもよく分からないことを呟いて、環は定食を完成させた。まあまあの出来栄えだけど、今宵は特別なオマケつきだから、許してもらおう。

「ほらお父さん、ごはん出来たよ」

いち早く席について、いただきますと合掌する。
食べる直前、父親の配膳に極上品のどら焼きを添えることも忘れずに。


(完)

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?