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言葉くづし 5―松寺橋
ひとつの生命から、ふたつの生命が誕生する。
まるで魔法のようなことが、この世界には起こり得る。嘘だと思ったら、改めてちょっと周りを見渡してほしい。きっと、思いがけないところにそうした出来事は存在している。
たとえ人間の生殖にかかわる研究がどれだけ進んだとしても、決して超えることのできない神秘のヴェールがそこにはある。否、ヴェールが下りているのではなく、すでに存在しているのだから、疑うことすら意味がない。なぜなら、俺自身の腕が、足が、胸が、頭が、いまこの場所に存在しているかぎり、生命の神秘というものを無意識のうちに考えてしまうからだ。
俺はバカなのかもしれない。感傷的すぎるのかもしれないし、夢想家だと笑われるかもしれない。そう思われたって別に平気だ。たとえ大袈裟であったとしても、自らの身体を丸ごと「不思議」だと捉えてしまう感情は、たしかに俺の内面を支え、そして縛りつけるだけの「木の根」となって意識の水面下に張り巡らされている。
そして、俺はもうひとりの「俺」と向かい合ったときに、俺のなかの疑問は最大限に膨張するのだ。
ははは、もうひとりの「俺」なんて言ったら、きっとあいつは怒るだろうな。
だって、あいつは女なんだから。
「ごっめん、冬兄!」
県立浅野川高校の眼前に架かる松寺橋。その橋の学校側の隅っこで待っていた俺に向かって、冬花は盛大な声を上げた。
「どんだけ待たせるんだよ、冬花。明日までが期末考査なんだから、早く帰って勉強したいのにさ」
俺の身体は男で、冬花の身体は女。
ひとりのお生母さんのお腹から、ふたつの性別の異なる生命が生まれたのは、いまからちょうど十七年前のこと。
「ごめんごめん、担任の梅野先生に呼び出されちゃってさあ……。やば、もうお昼の一時じゃん! どうりでお腹ペコペコだ」
俺は溜息をつき、自分の自転車を押して松寺橋を渡る。冬花も大人しく後ろをついてくる。
「奢れよ、楓ベーカリーのパンとドリンク。遅刻した罰だかんな」
「ななあっ! ど、どうか御慈悲を冬兄様! いまちょうど、私のフトコロ事情が厳しゅうございまして」
「お前が推しに貢ぎすぎてるからだろ。グループ全員のシングルやアルバムを揃えるのは序の口、事務所が出してる雑誌を毎号買い集めたり、アクスタ買ったり、配信ライブのチケット取ったり。そりゃ金欠にもなるだろ」
「なぜ冬兄がそこまで知っている! お義母さんにもバレたことないのに!」
「そりゃまあ、お前の兄ですから」
悔しさマックスという風に、冬花は背後からパンチを食らわす。まったく痛くない、戯れ程度のパンチだ。ちょっと、くすぐったい。
結局、冬花は楓ベーカリーに入ると、文句を言いながらも俺の分も合わせてお金を払ってくれた。わざと俺が高い価格のパンを選んだときはムッとしていたが、今日はふたりにとって特別な日なので、まあ良いだろう。
落ち着いたBGMが流れる快適なイートインコーナーで、俺たちはアイスカフェラテを乾杯する。
「遅くなったけどさ。冬花、誕生日おめでとう」
「それは冬兄も同じでしょ。おめでとう!」
あたかも結婚時のブーケを投げるかのように両腕をいっぱいに広げて、高らかにカフェラテのカップを掲げてみせた。
子どもじみているけれど、俺は思わず笑みがこぼれる。
お腹が空いていたので、その後はふたりとも無心でパンにかぶりついた。楓ベーカリーのパンの生地は、ほのかな小麦の香りとちょっと塩辛いバターの風味がマッチしてとても美味しい。冬花は大好物である豆パンを既に二個も平らげている。順当に食べ進めて、空腹が癒えてきたところで、ナプキンで口を拭きながら俺は言った。
「そういえば、梅野先生には何を言われたんだ? 先生も変だよな。まだテストの日程が残ってるのに、すぐ家に返さないなんて」
冬花はとても渋い顔をした。
「それはね……私がテストの最中に居眠りしてたのを怒られたの。問題が解けなくても、最後まで諦めずに取り組みなさいって。懇切丁寧な、お・せっ・きょ・う! 私の他にも数人呼ばれてたわ」
「うわ、相変わらず生真面目な先生だな。いちいち居眠りしてる生徒を集めて注意するって相当だ」
冬花の感情を受け止めつつ、特別ヨイショもしなければ否定もしない。表向きは中立の立場を保ちながら、でも本心は絶対に冬花を守るように言葉を選ぶ。彼女から不満や愚痴を聴くときは、必ずそうやって返している。
しかし、俺の気遣いに気づく様子はなく、冬花はフワァと大あくびを漏らした。
「眠くても、あと一日だから乗り切れるよ」
まったく、こいつの楽観主義には呆れる。先生に眼をつけられたというのに大したものだ。俺は真面目な生徒を演じてきたせいか、この手の叱責にはめっぽう弱くなった。もしかすると、冬花は意外と大物なのかもしれない。
「早く寝とけよ。夜更かしせず」
「ふぁあい」
また欠伸しながら、間の抜けた返事をする。
……本当は、真夜中に家を抜け出したんだろ。
俺は知っている。先週のとある夜と昨晩に、冬花がこっそり外出していたことを。何をしてるのか、誰に会ってるのかまでは知らないけれど、まさか男ではないだろう。
いずれ妹にも恋人ができるとは思っているが、今回の行動はそういった色気のふくんだ気配を感じない。もっと純粋で切実な何かが背景にある。ただの勘だが、俺は十七年間の経験を信じたいと思った。
――お義母さんのこともあるしな。
冬花が親父の再婚相手に複雑な感情を抱いていることは聞いていた。いや、特に聞かされなくとも態度で分かる。俺だって、お義母さんと上手くやろうとして特別に気を利かせたり、取り繕ったりした経験をもっている。家のなかを流れる微妙な空気を吸いたくなくて、わざと友達と夜遅くまで遊んで帰ったこともある。
――お義母さんは優しくて丁寧なひとだから。私も、同じくらい優しくしなきゃ悪いでしょ。
かつて、そう呟いて白い歯を見せた彼女の瞳は、じっと地面の溝を眺めては震えていた。
問題は、冬花が夜に家を抜け出すことではない。それがきっかけとなって、お義母さんとの間に亀裂が生じたり、他の犯罪に巻き込まれたりするこだ。なんとしても、最悪の事態は防がなければならない。
すると、冬花はぴたっと人差し指を俺のおでこに押し当ててきた。
「なーに辛気臭い顔してるのよ。そんなにテストの結果が心配なの?」
俺は不安を悟られぬように余裕の表情を見せる。
「誰に向かって言ってるんだい。浅野川高校二年首席の徳田冬仁だぞ」
パチン!
こいつ、曲げた中指をおでこにヒットさせてきやがった。さっきのパンチと打って変わって結構痛い。
「何すんだ!」
「奢れる冬仁は久しからず、ってことよ。恥を知りなさい」
「それを言うなら奢れる平家だろ」
俺の訂正は無視して、冬花は残りのカフェラテを一気に飲み干す。妹はカフェラテをそのまま飲むのを好まず、追加でスティックシュガーを大量に投入する習慣がある。そおっと透明なカップの底を覗いてみると、液体に溶けきれなかった白砂糖が塊になって溜まっていた。相当な甘党だ。
「不安なんでしょ、テスト。冬兄はお父さんの病院を継ぐことになってるもんね。そりゃ、ひとつひとつのテストが重たくもなるわよ」
目下の懸念事項はテストではなくて冬花のことなんだが、冬花なりに俺を心配してくれているのだと思った。
「なんだか、ごめんなさいね……冬兄にぜんぶ背負わせちゃって」
パンをかじりながら、冬花は日焼けした手の甲で顔を隠した。冬花の瞳が、しわくちゃになったパンの包み紙で覆われる。
俺はいたたまれず、フローリングを蹴って立ち上がった。
「お前、まだそんなことで悩んでるのか! もういいって言っただろ。お前は自分のやりたいことを貫けよ」
つい語調が荒くなる。他の店員やお客さんも訝しげにこちらを見て見ぬふりをする。俺は赤面して、座席に深く腰を落ち着けることにした。
「わかった。わかってるよ、冬兄」
パンを木製トレーに置いて満面の笑みを見せる冬花。
――お前、いま必死にスカートの裾を握ってるだろ。
――辛いのを我慢して、泣きたいのを堪えて、それでも笑おうとしてるだろ。
――そういう気遣い、もうやめてほしいんだよ。
俺は席を立った。
「……明日の数学Bの準備でもするか」
「ええ〜、もっと楓ベーカリーで話してたいよお」
ぐずる冬花を置いてけぼりにしてイートインコーナーを離れる。慌てて後ろから冬花が追いかけてきた。エアコンの効いた店内から外に出ると、生温い夏の風があたり一帯を不快に蒸らしている。
「夏の風ってさ、気持ち良い時とそうでない時とあるから不思議だよな。湿度が原因か?」
何気なく呟いた俺の言葉に、冬花は妙に力をこめた口調で答えた。
「それは気持ちでしょ。私たちニンゲンの気持ちの問題。自然界にとって、特別なことは何もないと思うな」
特別なことは何もない、か。
これまでの十七年間。
冬花の言葉に、俺は何度ハッとさせられただろうか。
「風は、いつだって平等に吹いてるよ」
ふたりの間に、大きくふくらんだ夏の風が一挙に吹き抜ける。
それは道に迷ってばかりの俺たちの背中を叱咤激励するような強さで。
「私は、夏の風、けっこう好きだよ」
「そうか」
くりかえしになるが、冬花と俺は二卵性双生児だ。
見た目や性別は違うけれど、お互いの趣味が共通するところも、意思が疎通するところも結構ある。自分で言うのも恥ずかしいが、わりと仲良くやれていると思っている。
それでも、時々思うのだ。
冬花は、俺の預かり知らない世界を知っているような。
俺の些細な苦しみを溶かしてくれるような。
複雑な家の事情も、これからの将来の不安も、すべてを良い方向へ変えてしまえるような。
そんな奇跡を起こしてくれるんじゃないか。
そんな奇跡とも呼べるような「言葉」を冬花は既にもっているんじゃないだろうか。
たとえそれが言葉の世界だけで感じることのできる、漠然とした期待だとしても。
「今度こそ、冬兄のほうが奢ってよ!」
目の前をステップを踏んで歩く彼女の言葉から、俺はつくづく、そう感じてしまうのだ。
(つづく)
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