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夏炉冬扇 #3

天つ風 絶ゆるとき
いにしえの鳥は歌う
だ聴かぬ 神の言葉
到らぬ者のあるべきか

秋の風が忍び込む部屋。彼女の目蓋がはっと大きく開いた。だいぶ長い時間、昼寝をしていたらしい。サンドロールを半分かじっただけの、到底食事と呼べないような栄養補給を済まして床に寝そべってしまった。眼に痛い夕焼けが部屋に差し込んで、赤い光線が窓から差し込んでいる。縒れたブラウスの裾から下着のシャツがはみ出している。セミロングの茶髪は縮れて、正直なところ邪魔だった。

まだ、今日は残っているの?

午後四時を指すアナログ時計を恨めしそうに見やった彼女は、翳りの濃い頬を膨らませて、再び横になった。早く、この令和三年九月二十日が終わってほしい。長かった大嫌いな夏は引いてくれたのだ。夏の次に嫌いな春はまだ遠い。気分が閉鎖されてしまう冬も、そのとき私が生きていなければ問題ない。今は、秋。外は過ごしやすくて誰かが楽しげに散歩している季節。夏・春・冬よりは呼吸が楽だけど、一日の時間がゆっくりと進むので、引きこもりの彼女にはジワジワ首を締め付けるような辛さがある。

どのくらいの間、まともに外出していないのだろう。

はじめのうちは、独り面白がって何日間こもれるか数えていたものだけど、次第にその意欲すら失せてしまった。彼女の場合、引きこもりといっても、まったく外に出ない訳ではない。部屋にストックするお菓子が切れたらコンビニまで買い物に行くし、身体がなまりすぎたら賽川大橋で風を浴びにいったりもするのだ。

彼女は、大学四年ときに登校できなくなった。その経緯は、心の奥底へ黒く重く封印した。周囲の皆が就職したり、大学院に進んだりするなか、ひとり留年生として取り残された焦燥と諦念が、彼女を縛っている。

死にたいのかもしれないと考えた夜もあった。しかし、お腹が空けば食べてしまうし、身体が疲れたら眠ってしまう。それは生存本能にかなった行為だ。きっと、こんな世界でもどこかで生きたいと願っているのだろう。でも、と彼女は口の中で呟く。

死にたくないけれど、人として生きる術がわからない。

ベッド上のスマホが着信を知らせている。彼女の母からだ。離れて暮らす母には、大学の立地するエリアの民間企業に就職したと説明している。だが、やはり母子であるからか、娘の生活が気になるようで、ちょくちょく確認の連絡が入る。それもそのはず、彼女は大型連休からまったく実家に帰らないのだ。適当にごまかして「ふつうに働いている感じ」を装っているものの、実情が露見するのは時間の問題だった。面倒くさげに母から届いたメッセージを眺めて、「私は元気」とだけ返信する。

溜息をついた彼女は、錆びたクレッセント錠を開けて、秋の雨空を仰いだ。宇宙船のように大きくて灰色の雲が天を覆い尽くしている。あの雲に乗ったら、さぞ楽しい、そして二度と帰ってこれない空間に連れて行ってくれそうだった。だが現実は甘くない。さっさと子どもじみた空想さえも捨てると、窓から身を乗り出して、やや強く降る滴に髪の毛を濡らした。三階の窓からは、黒く濡れたアスファルトがじっと待っている。ぶるると戦慄した彼女は、もう一度空を見上げて、降りやまない雨を微笑ましく受け取った。

雨が好き。春夏秋冬は嫌い。ゆえに、唯一好きな季節は、梅雨だ。

他の誰もが傘を差している。自分だけ濡れているわけではない。それが彼女には嬉しかった。腹黒い感性だと責められるかもしれないが、幸せな人間を素直に眺められない人間にとっては自然な感想だった。「つゆ」という語感も素敵だと思った。「つ」も「ゆ」も、曲線だけでできている柔らかなひらがな。消えてしまいそうな音、それでいて存在感を放つ音。災害級の激しい雨が日本を襲うことも増えてきたので、流石にそれは問題だと思うが、適度に地面を潤す雨は彼女の感性を刺激して、なくてはならない現象となっていた。

瘡蓋のある荒れた唇から、自然と歌が流れてくる。

天つ風 絶ゆるとき
いにしえの鳥は歌う…。

歌っていたら、何かものを書きたくなってきた。おもむろにノートパソコンの電源をつけると、使い慣れた文書作成ファイルを展開した。一行一行、慈しむように文字列を連ねていく。

詩を書いている間だけ、私は自由になれる。

胸のなかで光る言葉を反芻しながら、彼女は一編の詩を書きあげた。読み返して、うんと満足げに頷くと、ファイルを一時保存してパソコンの電源を落とす。

詩の世界から離れた途端、彼女の表情は翳りに包まれる。嫌な現実を忘れたいかのように、再び彼女は床についた。眠ってしまう直前、数年前に通っていた古風な建物の面影を思い出していた。

もし明日が来たのなら、あの建物へ行ってみよう。

寂しい彼女は眠った。埃の被ったハンドバッグには、アニメキャラクターを模した半透明のキーホルダーがぶら下がる。きらりと一瞬、突起部が夕陽に反射した。突起部には、彫刻刀で「Karo」と刻まれている。

Karo…夏炉。

寂しい夏は秋に溶けて、冬と出逢おうとしていた。




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