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言葉くづし 13―中島大橋

文化祭本番まで、残り二十日。

太陽の照りつけるアスファルト。自転車を漕ぐたびタイヤのフレームが銀色にかがやく。

金沢の旧市街は新盆といって、七月に墓参をする風習が残っている。とはいえ、八月の旧盆に合わせて郷帰りする人も多いので、墓地には真新しい赤や黃色の菊の花が供えられ、板キリコが風に揺れていた。

交差点の向こう側に見覚えのある男性がいると思ったら、なんと驚いたことに、六月の夜に私たちを補導しようとした若い警官だった。心臓が張り裂けるくらいドキドキした。日焼け対策のサンバイザーを目深に被り、律儀に自転車を降りてできるだけ冷静に警官の横を通り過ぎた。彼はおやとこちらを見て既視感を覚えたようだったが、特に声をかけられることなく離れていった。

ふうう……。

なんで私、あんな冒険ができたんだろう。

梅ノ橋での一件が昨日の出来事のように蘇る。
あの夜は、とにかく夏炉を救いたい一心だった。

恐怖とか、正義とか、体面とか、私の自由を縛りつけてきた言葉が一挙に弾け飛んで。

そのとき、私は確かに願ったのだ。
すべてのしがらみを解き放ったとき、初めて見つけられる大切なものを。

「私の心のなかの、神さま……!」

ザアアアアアア……!

晴天に、にわか雨が降ってきたかと思った。
高級住宅の庭に立つ女性がホースを使って散水している。グリーンカーテンがひろがる美しい庭の空間には、向日葵や千日紅、鶏頭などカラフルな花たちが生き生きと咲き誇っていた。私は緊張しながらその女性に近づいた。

「あの、すみません。私、徳田冬花と申しまして……」

女性は麦わら帽子のツバをくいと上げると、少女のように前歯を出して笑った。

「あらあ! あなたが冬花さんですね? うちの小夏がいつもお世話になっております。母親の聡子と申します」 

夏炉のお母様は、五十代くらいの元気いっぱいな女性だった。皺の少ない若々しい顔つきに、白髪と調和するようセットされた紫のパーマネント。桃色のふんわりしたエプロンにはクローバーの刺繍が入っている。

「そんな、こちらこそです! 今日から三日間、よろしくお願いしますっ」

私たちがお辞儀しあっていると、玄関口から当の夏炉が姿を現した。

「冬花、いらっしゃい。さあ、外は暑いから入って入って!」

「小夏、あんた冬花さんにお茶とお菓子出してあげてくれん? 私、ホース片付けんといかんし」

「はーい」

ふだんは利かん気の強い人のくせに、聡子さんの前だと大人しくなるのが(大人しく振る舞ってるだけかもしれないけど)可笑しくて仕方なかった。

「いいわね、冬花。お母さんの前では私のことを『小夏』って呼ぶのよ、絶対に。理由は後で話してあげるから」

家の中に入ると、洋装のウッディな設えがまず目に飛び込んできた。さり気なく壁にかけられた蝶の水彩画や、白山麓の黄昏時をとらえた写真、茶の間に飾られた木彫りの熊人形など、見てるだけで心がほっこりするアイテムが随所にある。

 「じゃあ、……小夏。お言葉に甘えて来ちゃったけどさ。ほんとうにいきなり、あなたのお宅に泊まって大丈夫なの?」

変な質問をしてるのは分かっていたが、誰かの家に泊まったことも泊めたこともない私にとって、今回の外泊はまさに大冒険だった。友達との外泊をあっさり認めてくれる夏炉とそのご両親の感覚が、どうにも掴めずにいた。

「何よ今さら。両親はあなたのことを大歓迎してるんだから、遠慮は要らないわ」

冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しながら夏炉が続ける。

「お母さん、お客さんが大好きなの。お父さんは大阪に単身赴任で長く帰ってこないし、私もここ最近は学校に行けるようになったから、家の中は基本的にがらんどう。きっとお母さん、寂しいのよ」

ふーん。そんなものなのか。

私を先導する夏炉の姿がとても大人びてみえた。

ひとつ屋根の下に暮らすお義母さんとさえ、ろくな会話できない私は、やはりまだ子どもなんだろうか。

そんな私の劣等感をよそに、夏炉はドヤ顔でお菓子のパッケージを見せびらかす。

「知ってる? この店のカステラ、ほんと美味しいのよ」

「あ! それコマーシャルで宣伝してたやつじゃん!」

「早速開けちゃいましょう。オープン・ザ・セサミ〜!」

私たちがお喋りに興じていると、ドアを三回ノックする音が聞こえた。

「こら小夏! お客さんに麦茶出すときは氷を入れてって言っとるやないの。冬花さん、ごめんなさいね。うちのアホがぬる〜いお茶なんて出してしまって」

グラスに注がれた麦茶を見ると、確かに氷が入ってない。

「そんな、お気になさらずに……」

「あっちゃ、また忘れてたよ。テヘペロ〜!」

「テヘペロじゃないでしょっ!」

閉じた扇子で夏炉の頭をピシャリと打つ聡子さん。なんだか漫才を見てる気分だ。

聡子さんは私と向かい合わせの位置に正座した。このとき私は、夏炉の整った容姿がこの母親から色濃く受け継いだものであることを確信した。怒ったときの眉の動きのしなやかさとか、思わず目で追ってしまう手指の仕草、そして相手を惹きつける特有の声色。

何もかも似ている。特に、可愛さの点で。

その後は三人で、授業やクラスのこと、今月末の文化祭のこと、SNSでバズったユーチューバーのこと、趣味や好きなタイプの男の子なんかの話で大いに盛り上がった。上品なのにフランクな雰囲気の聡子さんと、ハチャメチャに会話を乱す夏炉とのギャップが面白くて、あっという間に時間が過ぎていった。こんなに誰かと楽しくお喋りできたのは久しぶりだった。

「お、もう四時半かあ。冬花ちゃん、カレー作ろかと思ってるんだけど、どう?」

「私カレー大好きです! お手伝いさせてくださいっ!」

いつの間にか呼び方が「冬花ちゃん」に変わっているのが恥ずかしく、嬉しい。

「お手伝いしてくれるの? あら〜、偉いこっちゃわ。面倒くさがりの誰かさんとは大違いね」

「面倒くさがりで悪かったですね。私だってカレーくらいできるわよ!」

夏炉は不貞腐れている。

「本当に? こないだ玉ねぎが眼に染みるからってギブアップしとったくせに」

「不可抗力よ、不可抗力! 水泳のゴーグルかけりゃ大丈夫だって」

「夏炉、それマジで言ってる? ゴーグルかけなくたって、冷蔵庫で冷やした方が染みないんだよ!」

あ、と気づいたときには手遅れだった。
ついうっかり、「夏炉」と言ってしまった。

それまで明るかった聡子さんの顔が一瞬だけくもり、神妙な表情をしたのを私は見てしまった。

しかしすぐ元の顔に戻って、

「よく知っているわね、冬花ちゃん。玉ねぎは冷蔵庫から出しとくし、切ってもらえるかしら」

そう言ってエプロンの紐を結び直す。
ほっとしたけれど、いまのはどう考えても「大人の対応」ってやつに思えてしまう。

夏炉は私に「ばーか」と言いたげな一瞥をくれたが、彼女の気持ちの切り替えも早く、

「何ぼけっとしてるの。私のエプロン貸してあげるから手伝いなさいよっ」

タンスからミニサイズのエプロンを投げてよこしてきた。

はい、ごめんなさい……。

私は心のなかで夏炉に、そして聡子さんに謝りながら、小さすぎるエプロンに袖を通した。

聡子さんにとって。そして夏炉にとって。
『夏炉』とは一体、なんなんだろう。

肩紐が短くて身体が窮屈に感じる。

私の知らない世界が、まだここには存在する。

だから私は、黙々と作業をこなす二人の背中を、複雑な気持ちで眺めることしかできなかった。

(つづく)





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