風呂に入りながら考える

目標について。

私は目標を決めることが苦手だ。

小さくてもいいから目標をもつことが、成長につながる。
そんなようなことを何度も目にし耳にしてきたが、
未だになんとも消化しきれていない。

こうしたい、こうするんだという目標や決意が、人を大きくするのなら、
私は一生小物だと思う。

こうなりたいという思いがない訳ではないが、別にならなくてもいいとも思うのである。

例えば、海外で仕事をしている人のことをかっこいいと思うし、憧れるし、羨ましいとも思うが、
自分がそうなるために乗り越えなければならないハードルを思うと、
そこまでしなくていいか、となってしまう。

相手があることに対する目標などは特に苦手で、
相手次第なのだからこっちができることなんて限られてるじゃないと思う。

恐らく、腹の底にある「どうでもいい」という感情が冷却材のように冷やしていく。
そんな感覚がある。

私の周りにも
何年後にこうする!と決めて
ひたむきな努力している人がいる。

本当にすごい。宣言までするなんて。

夢は人に語ったほうが実現する、というのも何度か目にし耳にした。
やはり何度か目にし、耳にしたことというのは、ある意味何度か裏付けられたことだから、
色々な人がそう言うのだろう。

目標が苦手。
こういう性格はどこから来たのだろう。何かがしたいと周りに言ったことはあったか。

思い返すと、たしかにあった。
たしかにあったが、
どれも実現していないように思う。

その未完の積み重ねが、
目標に対する苦手意識や諦念のようなものを培ったのかもしれない。

そんな私の腹にある冷却材を、
すこし温め返してくれるのが、

「人見るもよし 人見ざるもよし われは咲くなり」
といった武者小路実篤だったりするのだから、
私は私であるが、私一人ではなく、
一つの個として完全体ではないので、
甚だ厄介なのです。

完全体という言葉を使って、
セルの完全体を思い浮かべるところも、
甚だ厄介なのでした。


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