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人々の中にある狂気~『この国の不寛容の果てに』を読んで

自分の中にある「内なる植松」

先日、雨宮処凛さんのインタビューを読んだ。

そして、衝撃を受けた。社会保障制度が危うくなった現代日本は「『命の選別』を匂わせるような空気」が漂い、「生きられる資格がある人の枠がどんどん狭まっていく」社会であるという。一体、今の日本に何が起こっているんだろう。私はそう思い、この本を手に取った。

植松聖被告によって19人の障害者が殺害された相模原事件が起きた朝のことは、よく覚えている。ニュースを見て、背筋が凍り付いた。しかし、私は自分とは関係のない世界で起きている事件であり、どこか他人事として受け止めた。そして、目まぐるしい日々の中で、いつしかこの事件のことは忘れていた。そんな中、この本を手に取った。そして私は再び背筋が凍り付くような思いを味わった。

「内なる植松」は私の中にもいる・・・

序章には耳の痛いキーワードが並ぶ。
「生産性がない者には生きる価値などない」
「『自己責任だ』と再起不能までに叩きのめされる社会」

これらの言説の存在を証明する事件は日々起こっており、それを後押しする世論には胸が苦しくなる。それらにとても賛同できるとは言い難いし、何て苦しい世の中だろうと思っていた。

しかし、我が身を振り返ってみよう。
私は最近まで現在は働いていない自分を「生産性のない者」だと嘆いていたではないか。そして、窮地に陥る他人をどこか「自己責任なんじゃないの」と思ったり、意識のない老人に莫大な医療費が投入されているという話を聞いて「勿体ないな」と思ったりしたことがあったのではないか。

この背景にあるのは、まさに下記のような空気に毒されている自分だ。

今の世の中には、「このままの自分」でいることが「罪」とされるような空気が満ちている。常に上をめざすべきだとか、いまの自分に満足しているようじゃ向上心が足りないとか。そうしてみんな、「ありのままの自分」を好きになれずに苦しんでいる。

植松被告も同じように自分のことが好きではない「時代の子」。

雨宮氏は「生産性」問題も「自己責任」論も、原因は「金」にあるとしている。しかし、日本経済がこれから上向く見込みはなく、「金」の問題はそう解決されそうもない。

それでは、私たちは一体どうしたら良いのだろうか?
私はそう思い、この本を読み進めた。

そこで見えてきたのが、「対話」「弱さをベースに繋がる」「それでいいじゃないか」というキーワードだ。

「弱さ」をベースに繋がるということ

相模原事件のあと、自らも脳性麻痺である小児科医の熊谷晋一郎さんが、「弱さで繋がろう」と呼びかけたそうだ。それぞれが持っている被害者意識を排外主義につなげるのでななく、もっと弱さや生きづらさを開示することで連帯することを目指したものだという。

ここで言われているのは、弱者だけでなく、高い地位にいる人やマジョリティ側も「名前のつかない生きづらさ」を抱えており、それを開示することで、生きやすくしていこうということらしい。

私はそれを読んで「そうかー。悩みや弱さをもっと世の中に吐き出してもいいんだな」と安心した。弱みを開示すること、それは最近自分が試みようと思い始めたことであり、でも本当にそのようにしていいのか、自信がなかった。

「弱みを見せたくない」という鎧を着ている自分。それは「強さ」や「優秀さ」に価値があると信じていたし、どこか「見下されたくない」とか「弱い人だと思われたくない」と思っていた。

でも、雨宮さんによれば「弱音を吐きあえて弱みを見せあえたら、全然違う地平が広がっている気がします。弱みを見せまいと強がっている人より、弱さをさらけ出した人の方がずっと魅力的だと思います」という。この言葉にとてつもなく勇気付けられた。全然違う地平を見てみたいし、魅力的な人になりたい。そして確かに、私が自分に求める「強さ」は別に「弱みを見せない」ということとは違うなと気付いたし、そういう人が魅力的とは思えない自分は確かにいた。

「対話」、その価値

精神医療のアプローチであるオープンダイアローグ。ひたすら話を聞き取ってもらえるだけで、人は安心し、涙するという。北欧では、オープンダイアローグによって、精神病棟が不要となったところもあるそうだ。

「対話」というのは、先の「弱さで繋がる」ことに不可欠なもの。

当書には、印象的な「対話」の例が出てきた。
「無差別殺人をしたい」と言っていた青年と毎日対話していたら、青年が「寂しかった」と吐露するようになって、働き始めたり大学に入ったりと変わっていったという話。

「対話」の力はすごい!しかし、これがなかなか難しい。私だって一番身近な人物である夫とですら、最近は対話が出来ているかすら怪しい。一緒にいても、お互いスマホの世界に没頭していたりする。なぜなら一緒に考える対話という作業はエネルギーがいる。でも本心では対話を求めている。まずは身近な家族から「対話」を始めてみよう。

「それでいいじゃないか」の先にあるもの

私は「それでいいじゃないか」となかなか思えず、常に変化しなければならないし成長したいと思うタイプ。それゆえに自分を精神的に追い込んでしまうことがよくあり、大学時代に友達から、高田純次の「適当教典」という本をプレゼントされたこともあるくらいだ。そんな自分は、確かに他人にも厳しくなる。

しかし、本に書いてあるように「『それでいいじゃないか』と思える人は、他者にも寛容になれるはず」。今必要なのは、「それでいいじゃないか」というゆるいスタンスなのだ。

「このままの自分」でもちろんOK、それでいい。一方で、「このままの自分」でOKと無理に思う必要もない。好きなところは好きだし、嫌いなところは嫌い、それでいいじゃないか。

おわりに

このように、「対話」をしながら「弱さ」をベースに繋がり、「それでいいじゃないか」と思う。そうして、他者への想像力を働かせる。分断社会を生きる私たちには、それらが必要だ。
でも、いきなり社会全体でやるのは難しい。なので、まずは身近な人からそれをやっていくのが良いのではないだろうか。まずは自分と身近な人の中で、寛容な社会を作ってみようではないか。