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【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん 第6話

6 二人でランチデート ②


開け放った窓から涼風が吹き抜けて、青々とした夏草の香りが車内に舞い込んでくる。
さらさら、さらさらとなびく森の騒めき。その空気に溶けて混じるかすかな川のせせらぎは、間もなく訪れる盛夏せいかの到来をそわそわと待ちびているみたいだった。
崖側の並木が途切れると、どこまでも澄み渡った快晴の青に、手を伸ばせば掴めそうな綿雲わたぐもがひとつ浮かんでいた。写真に収めたいという欲を惜しんで、握るハンドルに力を込める。すると、パシャッ、パシャッ、と左隣からシャッター音が二回。助手席を一瞥いちべつすると、ムヨクさんが綿雲にスマホのカメラを向けていた。
「いっ、今の!」
「ん、どした?」
「あとで送ってください」
「もう送ったよ」
「さすがです」
私とムヨクさんは、綺麗だと感じるもの、写真に残したいと思うものが似ているのかもしれない。そんなふうに考えると、この人と一緒にもっといろんな場所へ行ってみたい、という気持ちがじんわりと湧いてくる。
「いい景色だぁ」
助手席の背に深くもたれたムヨクさんが窓辺に肘を置いて、彼方に連なる新緑の山々に視線を流し、ふっと柔らかく微笑んだ。
「晴れてよかったですね」
「ほんと。今年も夏が来るねぇ」
「ですねぇ」
奥底から湧いてみなぎる、生命の気配。冬の静寂など思い出せなくなるぐらいの、鬱陶しいのに憎めない夏が、今年もやって来るのだ。
弾ける寸前の、にわかに浮足立つ曖昧な季節の中を往く、丸くて小さな軽自動車。なだらかな山道に散る木洩れ日の点描をなぞりながら、私たちは鬱蒼と生い茂る木立こだちの合間を縫うように駆け抜けた。

深閑とした森が突然開けたかと思えば、緩いカーブの先に、丸鶏のお店は忽然こつぜんと姿を現した。
砂利の敷かれた駐車場の入口。記憶通りの位置に、記憶よりも少しだけ赤茶けたトサカをかんした、それはそれは大きな鶏のオブジェが鎮座していた。
ちらほらと車がすでに停まっており、その中には開店を待っているらしき客の姿も見受けられる。極力バック駐車をしたくない私は、駐車場の隅のラインに沿った駐車スペースではなく、中央に設けられた区画の、その中でも余裕のあるスペースに前進したまま車を滑り込ませた。

私は車のエンジンを切って、シートベルトを外して一息ついた。
そして、すぐに息を止めた。ムヨクさんが窓辺に頬杖をつけたまま、寝息を立てていたのだ。
目鼻立ちの整った人だとは思っていた。しかし、改めて、心から同じことを思った。
会社員時代からそうだったが、ムヨクさんは相変わらず、化粧を一切していない。
細い鼻筋、ぷっくりと膨れた唇、はっきりと引かれた顎の輪郭……。まぶたを下ろした切れ長の大きな双眸そうぼう、そこからしなやかに弧を描いて伸びる睫毛まつげ。肌は雪のように白いのに、どこか温かみがあって、肩に届かないほどの短い黒髪はふわりと頬にかかり、うすら白んだ淡い光をまとってきらめいている。
太陽が眩しくてただ目を瞑っているだけのような、それでいて、暗く恐い夜にひたすら怯えてもいるような、恍惚こうこつと不安の入り混じった、儚くも美しい寝顔だった。
運転席と助手席の間に挟んで置いていた自分のポシェットからそっとスマホを取り出して、カメラ越しにムヨクさんをとらえる。日々を何気なく過ごしていると、人の顔をこれほどまでに観察する機会はあまりないかもしれない。こんなにも隣にいるのに、遠く離れた壁に飾られた絵画を見つめているようだった。
耳の小さい人なんだな、と私は思った。
親指でシャッターを切る寸前のところで、ムヨクさんは静かに目を覚ました。慌ててスマホをポシェットにしまい込んだ私は、隠し撮りの瞬間を逃してしまったことを悔やみながらも、何事もなかったかのように両腕を高く伸ばして弛緩しかんした。
「着いたぁ……んー?」
ムヨクさんは欠伸あくび交じりに呟いて、寝ぼけ眼を擦る。
「着きましたよー。ちょっと早いですけど」
穏やかな心地が私の胸を満たす。随分と長い時間、私はムヨクさんの寝顔を眺めていたような気がした。
「予定通りだねぇ……うっ……」
「う?」
私は咄嗟とっさに助手席を振り向いた。
「ガマ子っ……ごめ……」
ムヨクさんの雪のように美しかった顔色が、さらにどんどん青白くなっていく。
「あぁ! 待ってください!」
まずい。脳に熱い電撃がほとばしる。
「もう、む……」
腹を抱えて、背中を丸め始めるムヨクさん。
エチケット袋は、助手席の前の収納。だめだ、間に合わない。
「待ってぇえええええ!」
「……ぉ……おぇえええええ!」
「ムヨクさぁあああああん!」
脊髄反射で助手席に乗り出した身体を止めることもできず、気づけば私は、ムヨクさんの口元に、スマホの入ったポシェットを押し当てていた。
「ぁあああああ!」
「あああああーっ!」

「あ、蒸し鶏のサラダ美味しい! このソース、ピーナッツバターかな」
「……かもですね」
「ん? 鴨じゃなくて、鶏だよ?」
「……はぁ……。私……、運転荒いですかね」
「ごめんってばぁ、ガマ子ぉ! お願いだから機嫌直してくれぇ!」
畳の敷かれた、お座敷の低いテーブル。私に向かって、その机上に額をガンガンと打ち付けるムヨクさん。好奇の眼差しが二人を囲み、丸鶏のお店は一時、神妙な空気に包まれることになった。

どうやら、私が感動を覚えたムヨクさんの寝顔は、うねる山道で車酔いを起こし、無理やり眠って耐え凌ごうとしていた表情だったらしい。
ムヨクさんの吐瀉物としゃぶつまみれ、禍々まがまがしい臭気を帯びてしまった私のスマホとポーチは、今現在、後部座席のクーラーボックスに固く封じられている。
ムヨクさんの体調が回復したみたいで心底ホッとした。だが、こんな必死な顔でムヨクさんに謝られたことなどなかった私は、なんだか面白くなってしまい、えてしばらくムッとした表情をつくり続けることにした。


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【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん


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