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【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん 第9話

9 二人でランチデート ⑤


「秘密の場所があるんだよねぇ」
丸鶏のお店を出ると、ムヨクさんが耳打ちするように口元に手を添えて、悪戯いたずらっぽく声を潜めて言った。
「秘密の場所……ですか」
幹部から聞いてはいけない裏話をされる悪の手下になったような気分で、私はごくりと唾を飲み、ムヨクさんの言葉を復唱した。
「ふふん……、二つ目のトンネル抜けたら、左に一本道が伸びてるから、そっちにれてくれる?」
その言葉通り、長いトンネルを通った先に、車道とは別の上り坂が左に走っていた。
こんな道あっただろうか、と私は往路の道中を思い返した。
深い山の奥へと入っていく林道。通行止めにはなっていないようで、一般車両も侵入が許されているような雰囲気である。来た道を戻っているので、一度は視界に入っているはずだが、それは森にむ魔女の家への近道を想起させるほどに、突如として私の視界に現れた。
一台も対向車とすれ違わず、後続車もいない閑散とした山道で、私は律義に左矢印のウィンカーを灯した。周囲を瞥見べっけんするその視線には、車や人、その他障害物との接触を回避するべく安全確認をとろうとする意思があった、というよりかは、立入禁止区域への不法侵入の瞬間を何者かに目撃されていないか、しきりに警戒心を張り巡らせる背徳と怯えの色があったように思う。
「……入っていいんですよね?」
「いや入ってから確認すな」
感嘆の溜息を洩らしたくなるほどの瞬発力でムヨクさんから鮮やかにツッコまれ、思わず吹き出した私はそのままアクセルを踏み込んだ。
木立の枝葉が頭上にふたをする、アスファルトの舗装ほそうがれかけた一本道。昔ながらの道らしく、縦横無尽に切り拓かれた野蛮やばんな雰囲気に満ちている。一方通行ではないことが不思議に思えるほどに車幅は狭く、小型の軽自動車同士ですらすれ違えそうにない。
そんなことを考えながら、緩やかに折れ曲がった山の輪郭に沿ってハンドルを切る。すると、そのカーブの先は山側がえぐられたように道が開けていた。
「よし、その辺に停めてもらえる?」
そう言って、ムヨクさんは膨れた路肩の端を指差した。どうやらそこは、崖側を走る対向車と鉢合はちあわせてしまった際に、山側の車が避けてスムーズにすれ違えるように、意図的に削って造られたような余剰スペースのようだった。
「今さらなんですけど、野草って、勝手に採っても大丈夫なんですか?」
「うん、自然に生えてる草だし。山の管理人もあんなんだし」
「え、あんなん、ってムヨクさん、ここの地主さんとも知り合いなんですか?」
「ん? ああ、知り合いも何も、ここはトリさんが持ってる土地だよ?」
「あ、そうだったんですか!」
ムヨクさんの慣れているような振る舞いから、なんとなく許可が下りている場所なのだろう、とは想像していた。が、まさか、鳥飼さんの保有している敷地内だとは思いもしなかった。であれば、何も心配する必要はなさそうである。

「その辺に生えてるやつら、ガンガン採っちゃっていいよぉ」
エンジンを切って車から降りるやいなや、ビニール袋を手にしたムヨクさんが欠伸あくび交じりに言った。
濃い緑が支配する視界を見回す。その辺に生えているやつら、とはどれのことを指しているのだろう。たらの芽やワラビ、ゼンマイぐらい特徴的な山菜なら辛うじて見分けがつくが、野草の知識など皆無に等しい私には、どれが安全な草なのか判然としなかった。
「ぜんぶ……、同じに見える」
「そんなガマ子には、こいつを採りまくってもらおう」
ムヨクさんは道端でしゃがみ込むと、そこら中に繁茂している一つの草を千切ってみせた。それは、赤茶けた茎の先から五枚の小さな葉が鳥の足のような形状に生えた、街中でも伸び散らかっている類の雑草だった。
「なんか、どこにでもありそうな草ですね」
「そう、ビンボウカズラ、ほんとにどこにでもあるよ。ヤブガラシって言ったほうが馴染みあるかな。文字通り、やぶを覆い尽くして枯らしてしまうほど大繁殖するから、ヤブガラシ。実はね、一般のご家庭では厄介者扱いされてるけど、リクガメ飼育者には割と重宝されてる野草なのだよ」
そう言ってムヨクさんはすっくと立ちあがると、軽やかな足取りで勾配こうばいの急な上り坂を歩き出した。道沿いに生い茂るヤブガラシ、その中でもなるべく色鮮やかで汚れていないものを選別して、ビニール袋へと放り込んでいく。
私もそれにならってヤブガラシを採集しながら、ムヨクさんの背中を追った。食後の軽い腹ごなしにはなりそうである。
「お、タンポポにオオバコ、コシアブラも見っけ」
少し先を歩くムヨクさんが嬉々として声をあげた。
「タンポポってリクガメのご飯になるんですか?」
「うん、あたしたちも食べられるよ。おひたしとかにすると美味しいかな、ちょっと苦いけどね」
「へぇ、タンポポって食べれるんですね」
ムヨクさんが採取していく野草は総じて「草」としか言いようがなく、教えてもらったヤブガラシだけに黙々と手を伸ばしていくほかない。スーパーへ買い物に行っても、名札のかかった生野菜を注視することはおろか、そもそも青果コーナーを巡回する機会すら滅多にない私は、ほうれん草と小松菜と青梗菜チンゲンサイの区別もいまいちつかないほど、惣菜弁当やらカップラーメンやらの荒んだ食生活を送っている。同じ会社員として忙しなく働いていたはずのムヨクさんがここまで野草の知識に精通していることを知ると、途端に自然界に対して無知な自分が恥ずかしく思えてきた。

「普段も近場で野草採りとかされてるんですか?」
「んー、極力庭で育てるようにしてるから、しないかなぁ」
野草を採ってはそんな他愛もない雑談もしながら、九十九つづら折りに曲がりくねった上り坂を進む。
「やっぱり、外ならどこでも採っていい、ってわけじゃないんですかね」
「公園とか河原とかは自治体の管理がどうなってるかも要注意だけど、そういう権利的なことより、除草剤とか犬猫のおしっことか、鳥の糞とかね、衛生的にちょっと抵抗あるから」
どこかで工事をしているのだろうか、近くで何かが雪崩なだれるようなすさまじい轟音が低くうなっており、ムヨクさんの声が少し遠くに聞こえる。
「あぁ、どこで除草剤が使われてるのか分からないとなると、コハクちゃんたちの体にリスクですよね」
「まぁ、個人的な感覚だけどね。街中より山奥のほうが、ちょっとはマシかなって」
野生の獣に遭遇してもおかしくはなさそうな、物々しい畏怖に満ちた森の中。鹿やタヌキならまだしも、イノシシや熊と相対したらひとたまりもないだろう。
どこまで行くのだろう、と不安感を少しばかり抱き始めた頃、涼しげな顔をして滑るように坂を上っていたムヨクさんが不意にその足を止めた。日頃の運動不足を反省しつつ息も絶え絶えに彼女の背中に追いつくと、崖側の木立が途切れて視界が開いた。
「……っ!」
私は目を見張った。
「ようこそ、名前のない秘境へ」
そこは、渓谷だった。一閃のいかづちわかたれたように絶壁の断崖が切り立ち、露出した滑らかな山肌が陽射しを浴びて、つやめいた柔らかい色彩を放っている。
「うわぁ……」
「すごいでしょう」
山をさらうほどの水量。何かが雪崩れるような凄まじい轟音の正体は、川だった。別たれた崖の直下、その奥底に、幅の狭い激浪げきろうの水流が走っている。まるで、巨大な白龍が山を喰い破って地底を駆け抜けているかのように、川は凄まじい水飛沫しぶきを巻き上げて咆哮ほうこうしていた。
「この水が、ここまで崖を削った……、ってことですよね」
「そう、何百年、何千年とかけてね」
しばらく私は呆然と立ち尽くして、自然が織り成した圧巻の造形を眺めていた。
「観光地化されてないから、余計に野生感き出しの美しさがあるよねぇ」
「ですね……美しいというか、もはや恐いです」
最初の最初は、どれだけ高いところを流れていたのだろうか。どれだけの時間をかけて、地面はあんなに下まで掘り下げられたのだろうか。十年後二十年後、あるいはもっと先の未来、再び私がこの場所を訪れても、何かが変わったようには見えないのだろう。それでも、人間の一生などとは比べ物にもならない規模で、ゆっくりと、でもはっきりと、そして一瞬にして、巡りめく歴史の中を悠然と移ろい続けているのだ。
「よし、帰ろうか。野草もこれだけ採れたし、久々に美味い空気も吸えたし」
ムヨクさんが息を吐いて、静かに言った。
「ヤブガラシは覚えましたよ」
「お、いいじゃん。じゃあ、ガマ子からヤブガマ子に進化だね」
「進化させないでください」
迫り来る畏怖にしかりと身を震わせた私たちは、そこで踵を返して、人間のちっぽけさを噛み締めながらその場を後にした。


10 トリさんとムヨクさん

【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん


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