真実を写すもの
今ではSNSで共有することが当たり前になった写真。
スマホで撮って加工してアップする。
真実を写すはずの写真だが、公開する写真は画像処理が施されていて、いわばフェイクだ。
写真がこれほどまでに日常的なものになったのは何故だろうか。
写真が登場する以前は映像の記録は絵描きによって行われていた。1800年代初頭に写真技術が発明されて普及が始まると、風景や景色、人物像を記録するために写真が使われるようになった。いわゆる記録写真だ。それに伴って絵画は、単なる写術的な記録から心の内面を写す表現手法として発展していった。
記録手段として普及した写真も19世紀末になると絵画的な表現を取り入れるなど、現実の光景そのままを記録するだけでは無い使われ方がされ始め、以後は写真を芸術表現の一つとしても利用されるようになった。
記録および芸術としての写真は、銀板やフィルムを使用した銀塩写真として発展普及し、コンパクトカメラの広まりに伴って庶民の日常や旅行の記録に多用されるようになった。
しかし銀塩写真では、フィルムを化学処理によって現像し、さらに暗室で印画紙に焼き付けることが必要であり、現像やプリントの為の器具を持たない素人は、街中にある現像受付所(DPE店)に持って行く必要があった。
1980年代当時の価格でフィルムが1本300円、フィルム現像代が約500円、プリントが一枚30円程度だったと思う。つまり24枚撮りのフィルムを使うと約1500円、一枚あたり60円も掛かったということだ。
銀塩写真の場合はプリントしてみるまで画像の確認が出来ないから、失敗テイクが多ければ一枚単価はもっと上がることになる。プリントしてみたらフィルム一本分まるまる使える写真が一枚も無いということもザラにあった。
2000年代に入ってコンパクトなデジカメが普及すると銀塩写真からの置き換えが進んだが、当時の一般向けデジカメの画素数は300万画素程度で、プリント技術も確立されていなかった為、写真画質をどう安価に実現するかが技術的なテーマだった(しかもメモリーやストレージの価格は高く、写真は印刷して見るものという前提だった)。
ここまでの段階では、写真の一枚あたりコストが安いとは言えず、従って無闇矢鱈と撮りまくるような事は考えるにも及ばなかった。
自ずと写真は記念撮影的なワンショットとなった。プロカメラマンでなければ画像処理とは無縁だった。
ここで現在に飛ぶ。
世の中の写真撮影の殆どがスマホによるものになった。写真はプリントするものではなく、スマホの画面で見て、データはクラウドストレージに保管するものになった。
撮って出しでは無く、加工するのがスタンダードになった。しかも撮って出しの段階でも既に加工されている。
写真は記録すること以上に、人生を表現することの一部になった。
撮影してすぐに結果を確認でき、その共有によって他人の評価に曝されるから、一般レベルの撮影技術は飛躍的に向上した。
写真がここまで日常的になったのは、デバイスの機能面・価格面での進化によるものによるところが大きい。そして同時に、撮影コストが低下し実質ゼロ円になったことだ。撮影した写真や動画を利用して稼ぐことすら出来る。
最初こそ自分の生活領域をネット上に晒すことに抵抗感があったが、特定されないための方法を駆使して公開する情報レベルを個人が無意識にコントロール出来るまでになった。
写真で切り取ることによって、日常の中にある非日常を簡単にストック出来る。
切り取られたそれは、リアルであってリアルではない、空間の間に漂う煙のようなもので、吸い込めば簡単にトリップできる。
真実を写す為の道具がいつの間にか真実を演出するのに欠かせない小道具になって人々の生活を彩る。
真実とは違ったそれは、フェイクと言えばフェイク。フィクションと言えばフィクションだ。
しかしそれも含めて私達のノンフィクションが構築されている。
さながら舞台の演者となって将来の自分から照らされるスポットライトの中で踊る。
写真の中にあるものが今のあなたが見た真実であることには違いない。
おわり
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