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職人の技

 製造業を支える職人がいなくなった。
 昭和の時代は、どんな大企業であっても製造現場では何だかんだ言って人の手が必要だった。システム化された後でも、経験に基づく状況判断で早期に異常に気付き大事に至る前に対処することで事故を未然に防いできた。
 そうした世代のいわば職人達はいまや定年退職し、いわゆる職人技はシステムの機能として置き換えられた。もはや職人の勘みたいなあいまいで根拠に乏しいものは求められなくなってしまった。そしてそんな技を持っているひとが現場から消えてしまった。

 職人が築いたノウハウを折り込んだシステムは、効率性を求める資本主義の中でもてはやされ、より効率化が進んだ。その一方で職人技は古いものとして捨て去られた。次代の従業員は職人たちの技を引き継ぐ技術も能力もなく、システムを監視することは出来ても、異常事態に対処することも出来なければ、異常のきっかけになるような小さな変化に気づくことはなくなった。センサーが拾った異常はシステムが検知するし、センサーが拾わない異常には気づく術がない。従業員自身も小さな変化に気づくための経験がない。

 業務を効率化して、生産性を上げていくことは、資本主義の成長を支える屋台骨だ。人の限界を超えた先にはコンピュータ・システムによる置き換えが容易に進められているが、新たなノウハウの蓄積はコンピュータの中でしか起きなくなってしまった。
 人はただ機械がやることを見て、動き続けるように監視を続けることしか出来なくなってしまった。

 機械に置き換えられるということは、全てが数値やエビデンスを伴っていることになる。出来上がったものを継続するためにはベストな方法だが、新たな何かを生み出すことは出来ない。
 理屈抜きにこれはイケると思える何かを推し進めようとしても、エビデンスを求められたら前には進めない。これから起きることのエビデンスはどこにもないから、イノベーションの種には根拠は無い。全てのことに数値的な根拠を求められたら未来の道は切り開けない。

 つまり、何事も想定通りに進むことのみを良しとして、想定外のことはありえないとする世界が広がっているとも言える。
 これまでの常識では考えられない何かを思いつき、それを実現するために無茶とも思える情熱を注ぐような場にしかイノベーションは起きない。
 企画を通すために何人もの印鑑が必要なカイシャでは新たなことは生まれない。
 新たなことが生まれなければ新たな世界の新たな社会に順応することは出来ない。

 いなくなってしまった職人たちから、われわれは何を学んでおくべきだったのだろうか。

おわり
 

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