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世界中の情報へアクセス出来るこの板は

 街で見掛ける多くの人が、耳には耳栓をして手に持った板を覗き込んでいる。こんな未来を十年前に想像していた人はどれくらいいただろうか。
 朝起きてから夜眠りにつくその時まで手にした板を片時も離さない。離したくなくなっている。その板状のデバイスを見たことがない人にしてみれば、滑稽な光景に違いない。

 それが今の私達には常識化した世界だ。
 え? まだスマホ持ってないの? 何でLINEを使わないの?
 そうした質問の後には、便利なのにと続く。
 でも、本当に便利になったのだろうか。
 つい、そんなことを考えてしまう私ですら、この文章を板状のモノに入力し、そのデータはクラウド上に保存されていて、いつでもどこでも続きを書くことが出来る。

 Google社が出来た頃、掲げられたその使命「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を聞いても全くピンとこなかった私は、何も理解出来ていなかったし、想像力が無かったのだと改めて思い知らされる。
 当時はまだインターネットは未開の地だった。ネット回線は今からすれば速いとは言えないADSLで、日本でのインターネット普及率は10パーセント程度、Windows98が発売された年だ。ネット上に世界のデータなど欠片もなかったのだ。交通整理をすべき情報などどこにもなかった。例えて言えば、車を持っている人が殆どいない世界の小さな離島に最新の信号機を創ろうと言い出したようなものだ。すぐにここも、ものすごい交通量になるからと言って。
 Googleとはそんな存在だった。

 未だに私は情報ってなんだろうかと考えてしまう。私たちがこの板状のモノを通じて触れている情報は、ヒトにとってどんな意味があってどんな効果や悪影響を与えているのか。時代のさなかにいる私達には知りようがないのだろうか。

 世の中のあらゆることは、データベースに電子的に記録された瞬間から情報になる。かつては無かった「個人情報」が登場したのも、インターネットに接続されたデータベースの普及と切り離せない。
 そしてまた、SNSの広がりによって、個人が入力するあらゆることがデータベースに蓄積されて情報となり、見たことも会ったこともない人の発信する噂がガンガン飛び込んでくるようになった。一つの商品を購入するのにこれほど他人の噂(レビュー)を気にした時代はなかっただろう。

 噂が毛細管現象のように隅々にまで浸透する時代となって、人はあらゆるものを評価対象にするようになった。その結果、風評被害なるものが発動する機会が増えた。それに怯えることも増えた。異物がひと粒でも混入した可能性のある食品は、それが全く害のないものでも大量に廃棄される。
 風評被害とは逆に、ブランド力がものを言う時代でもある。評判を勝ち取れば儲けは鰻登りになる。
 つまり、評判社会は浮き沈みの落差が著しい。
 これが情報化社会の現実だとすれば、私たちはすっかり情報に踊らされてしまっているということにはならないだろうか。
 それは便利さと引き換えて余りあるものなのだろうか。
 世界中の情報へアクセス出来るこの板によって私たちは幸せになったのだろうか。

おわり



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