見出し画像

交換可能性が離婚を常態化させる

 現代の私たちは概ね交換可能な存在だ。そういう社会に住んでいる。
 たとえあなたが明日会社を辞めたところで、引き止められはするだろうが、会社にとってあなたが想像するほどの痛手にはならない。それは会社が交換可能なもので出来ているからだ。交換可能だからこそ会社の機能が維持出来ると言い換えても良い。

 そんな中、人類が唯一交換可能に出来ていないのが命だ。
 一度死ねば蘇ることはない。これはどうしたって抗えない自然の摂理だ。だからこそ私たちは無駄と分かっていても生命保険に加入してしまう。
 生命保険が何故無駄かって?
 分かり切っていることだけど、命はお金には変えられないのだよ。

 では、交換不可能な命を持っている私たちがどうしてこの社会では交換可能な存在になりか下がってしまったのだろうか。
 相変わらず命は尊いと誰もが思っているにも関わらず、あるいは愛情や友情が尊いものだと思っていないながらにして、どうして私たち誰かに取って変えることが出来るようになってしまったのだろうか。

 本当の愛情や友情だったら交換可能などではないと言いたくもなる。
 しかしそんなことは無い。むしろ愛情や友情は憎しみに変わったりもして厄介な面がある。

 婚活イベントやマッチングアプリは、私たちが恋愛や結婚においても交換可能であることを意識させる。恋愛対象をスペックで計る事が交換可能性を意味していることに私たちはあまり気付いていない。
 どんな人が好きですか、どんな人がタイプ? というのは使い古された質問だが、実際のところそんなのは分からないというのが正しいのではないか。仮に最初はスペックで好きになったとしても、最終的には表向きのスペック以外のところで惹かれ合ったから結婚に至ったのではないか。

 子供の頃から日常的にSNSに触れ、スペック重視で友達付き合いをしていると、スペック以外の人間性を味わうための習慣が身につかないのではないかと危惧している。
 SNS以前に、何十年も前から学校ではスペック重視の教育が行われていて、人間性などとっくに失われた価値観かも知れない。

 人のスペックはずっと一定ということはない。
 年を取れば体力は衰え皺だって出来る。そうでなくても性格は変わらないと思っているのは幻想で、ちょっとしたホルモンバランスの変動で怒りっぽるなったりもするのが人間だ。
 好き嫌いだって、生まれてからずっと同じという人はいない。自分は変わっていないと思う人は、単なる願望に取り憑かれているだけだ。

 考え方が変わらない人のことを持て囃しがちな世の中だけれども、そんなのは嘘だ。これも願望に過ぎない。毎日の気持ちや考え方が全く同じ人などいない。
 一本筋が通っているような人に憧れるのは構わないが、それを目指さない方が精神的に良いのではないだろうか。

 スペックが変わらないという期待をし、スペックが違ってしまえば交換可能だと思う先には、離婚が常態化する社会が待っている。いや、もうそうなっているか。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?