英会話が出来るようにならない別の理由
学校での授業だけで英会話が出来るようになる。
何十年も前から言われてきたけれど、未だに状況は変わっていないように見える。
自治体の苦悩
各自治体では、高校入試のスピーキングテストをどうするか頭を悩ませているという。
テストのやり方の難しさはもちろんだが、テストをやることになると、それ専門の塾に通う人が出てきて家庭間格差を助長して好ましくないと言うのが理由らしい。塾通いは英会話に始まったことでは無いと思うが。
英語の授業を通じて何を身につけるか。その目的と基準は恐らく文科省が定めているだろう。
それでも英会話が出来るようにならないのだとしたら次のような理由が考えられる。
文科省の指針が間違っている
自治体のやり方が間違っている
生徒のやり方が間違っている
これら全てが原因とも言えるかも知れないが、これ以外の理由もあると私は思っている。
しかもそれは、英語に限ったことではない。
学習の目的とテストの目的
新しい知識を学び身につけることが学習の目的で、テストはその成果を測定することが目的。成績に結びつくのがテストである以上、テストの結果が重視される。ここまでは当たり前。
ところが、勉強はテストのためにするものという風になると、学習とテストの本来の目的が達成できなくなる。つまり、新しい知識を身につけることではなくテストに出る問題やその回答方法を覚えることが学習であると錯覚し、テストはテスト対策の出来不出来を測るものになってしまう。
実際にはここに受験という要素が入ってくるので事態はもっと複雑だ。入学試験は入学に足る学力があるかを確認することが本来の目的だが、希望者数が定員を超えるのが普通だから、篩に掛けることが目的になってしまう。
勉強なんて・・・
大半の小中学生は、勉強なんてつまらない、面倒くさい、やる意味が分からないけれど親がやれというからやる。そんな感じだろう。
つまり勉強をするモチベーションなんてない。
少し知恵が付いてくると、こんなことを勉強しても大人になって役立つわけではないと、誰に聞いたのか知らない誤った情報を流布する。
大人も「じゃあお前は高校でやった数学の微分を今の生活で使っているとでも言うのか」なんて言う始末だ。これに対して「自分は使ってないけれど、微分がなければテレビだって自動車だって開発できない」と返すのも、実は同じ穴の狢。どちらも学習の意味を見誤っている。
悲しいかなこれが世間の殆ど全てだから、状況は変わりようがない。
学校の実際
結局のところ学校は学習するところにはなっていなくて、授業と称する儀式を日々行い、時々テストという別の儀式を行いながら一定の年月を強制的に過ごす場、ということになっている。
別に、良い悪いの話でない。そうなっているという話だ。教員のせいだと言う気も毛頭ない。むしろ私達はそういうものだと承知して受け入れてきた。
だからこそ塾が儲かるのだし、英会話スクールが成り立つのだ。
学校は勉学だけを学ぶところではないと言うのは正しくそうだが、実際は勉学以外のことを学ぶところになっている。
学習好きの人達
小学校には│極《ごく》たまに学習が好きと勘違いをした生徒がいて「アタマガイイ」という符号を付けられるが、そういう変人はそのうちに「シンガクコウ」というムショに送られるから会うこともなくなる。
ムショでは同じような変人達が集まっているけれど罪の重さが違っていて、終身刑の人達は「テンサイ」と呼ばれ、微罪の人達は「ボンジン」と呼ばれる。
ボンジンの一部は「イチリュウキギョウ」へ送られ、一部は出所する。
テンサイたちは彼らの世界を謳歌する。
冗談はさておき、人間はもともと学習好きな動物だ。ただし、学習することに直ぐにメリットがある場合に限る。それは、好きなことややりたいこと(例えばゲームなど)を学習する場合を思い起こしてみれば良い。
そして人間は他人に強く影響を受ける動物だ。人の行動や言動が自分の行動を左右する。みんなが持っているおもちゃが欲しくなるし、上手だねと言われれば嬉しくなる。
だから、学習したこと出来たことをその場ですぐに他人に評価されると、もっとやりたくなる。大抵の人は赤ちゃんのとき、少し言葉に似た音を発しただけで親たちが大げさに良い反応する。それは言葉を覚える強い動機付けになる。
小学校に上がると、強いて勉めるなどと言われて嫌な勉強が始まってしまう。それでも、自ら学ぶことの喜びを知る機会があれば良い。しかし多くの場合は、勉強は面白くもないのにやらなければならないことになってしまう。
子供が小さなうちほど、出来れば小学校のうちまでは学んだことを親が一緒になって喜べると良いと思うのだが。
閑話休題。
英会話の話だ。
学校教育がそんなだから、学校で英会話を身に付けようと言うのはおかしな話だ。学校は何かを身につけるところではなくて、時間を過ごすところだからだ。つまり公然の暇つぶしだ。
吸収力も記憶力も好奇心も旺盛な年代にみんなで暇つぶしとは勿体ない話だ。もちろん人には向き不向きがあるから、全ての事を同じように習得させようとする(振りをする)のはおかしい。同じ暇つぶしでも多様性は必要だ。
どうしたら良いか。
もし、学ぶ喜びを大切にするような教育方針が立てられて、確実に実施されるようになるのであれば、特段何もしなくても多くの人が英会話くらいは出来るようになるはずだ。日本語だってしゃべれるのだから。
英語を覚える過程でそれが「勉強」になってしまうと、出来ないことは咎められ出来ても無関心というのが習慣化して、勉強する気にならなくなってしまう。
新しい言語を学ぶ喜びを味わえる機会があるほど、結果は伸びる。
もし、今のような「勉強はテストのためにするもの」という状態が続くのであれば、英会話は学校以外で学ぶしかない。
英会話を目的とした英語教育のため、今では小学生から英語の授業がある。
1956年に全国の高校入試に英語が採用されるようになった当時に比べれば、皆の意識は高くなっている。
学ぶことの喜びを体感出来る場が増えることに期待したい。
おわり
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