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平穏無事はラッキーと思いたい

 技術が汎化されて日常に溶け込めば溶け込むほど、人々にとってはそれがどんな技術だったかはどうでも良くなり、何も関心を抱かなくなる。
 逆に言えば、どうやって実現されているか人々が気にしなくなった時、その技術は定着したと言えるのかも知れない。
 しかし、普段は当たり前のように提供されているものでも、いつ止まっても対処出来るようにしておくのはとても大切なことだ。

 ラジオが家庭にやってきた時、夕食の後は皆でラジオの前に集まって番組に聞き入っていたという。電話と違って線で繋がっていない、目に見えない電波に乗ってやってくる遠くの人の声が、目の前の箱から飛び出てくるのは、非日常的な不思議さとともに、どこかワクワクさせる魅力を秘めていた。

 ラジオからテレビに変わり、箱の中には音だけではなく人の姿が映し出され、気づかないうちに家に入り込んだ人がいるのかと驚いた老婆はテレビの箱の後ろに回り込んで首を傾げていたという。
 世界の映像がお茶の間に居乍らにして見られるのは、画角の範囲外に広がる遠くの世界の現実への想像を掻き立て、人々に夢を抱かせた。

 テレビもラジオも電波を活用した技術だ。
 ラジオが普及した頃、ラジオを自分で作ってみるというのが学生たちの間で流行ったことがあるらしい。そういう記事を目にすることがあるし、技術者だった私の父も作ったことがあったと聞いた。そして私も小学生の頃にバケツを利用して電池のいらないラジオを作ったことがあった。

 家庭でも使えるレベルの当時の技術がどういう仕組みになっているのかを知ることは、興味の対象になっていたということだ。
 そして自分でもやってみることによって、技術者の凄さを身近に感じ、そうした人々の存在が放送を支えているのだと想像していた。

 インターネットが日本にもやってくるぞとなった時、それがどういう仕組で機能しているのか、何が出来るのかを皆が想像していた。
「レンタルビデオ店に借りに行かなくてもネットを通じて映画が見られるようになるんだよ」という父の言葉は、『ウルトラマンは実在するんだよ』と言われるのと同じくらい非現実的なことに聞こえた。
「将来は皆が通話を出来るハンドヘルドコンピュータを持ち歩いて、テレビ電話が出来るんだ」というのも、『将来は空飛ぶ車が行き交っているんだよ』と言われるくらい夢のまた夢のことのように思えた。

 私たちは普段、全てが何事もなく順調に運ぶとしたらそれは素晴らしいことなんだということを忘れがちだ。
 世の中は事故や災害に溢れている。
 そんな経験が無いとすれば、たまたま運良く遭遇せずに生きられて来ただけだ。
 通信障害やサーバーダウンでサービスが使えなくなった時、社会のインフラが停止することはけしからんという論調が強くなり非難轟々となるが、そんな事態は想定しておこうよという話だ。
 そりゃもちろん、インフラ設備は止まらないに越したことはないし、提供する側も最大限の準備はしておく必要がある。しかし、どんなことだってコストとのバランスがあるし、事前には想定出来ないことだってある。
 後になってそこまで想定しておけよと言うのは簡単だが、出来ることと出来ないことがあるのは分かりきったことだ。

 この冬は、再び電力が逼迫する可能性があるという。
 電力が逼迫すると最悪の場合は停電になる。電力会社は社会インフラなんだから絶対に停電にならないように対策をしておけと言う前に、個人が出来る範囲で最大限の節電をし、最悪停電になっても困らないような準備をしておこう。心の準備も含めて。
 停電の可能性があるのが分かっていて準備をせず、いざ停電になってから非難だけするのは、どう考えてもおかしいと私は思ってしまうから。

おわり

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