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職住接近を遠ざける心理

 私を含め都市部で働くサラリーマンの多くは、働く場所と生活の場所が離れている。そうした人々は(もちろん私も含め)長時間かけて通勤することが当たり前に思っていて、それがおかしな事であることに気づいていない。

 職と住の地が離れていることにそれなりの正当性を見出していて違和感がなかった筈なのに、先の新型コロナ禍を期に広がった在宅勤務によって、その必要性が崩れた。多少の不便はあれど会社に行かなくても出来る事があるのが分かった。
 この話、在宅勤務をしている当事者はあまり違和感無く受け入れていると思われるが、職住一致している人たちから見れば不思議でしか無いだろう。職場に行かなくても出来る仕事なんて、無くても良い仕事のように見えるからだ。

 自分の仕事が直接誰の役に立っているのか分からない様な仕事があるのは、社会が複雑化したからだ。なので、そうした仕事が不要であるとまでは言えない。しかし、仕組みをもっと単純化する余地はある。つまり、その在宅勤務は本来は不要な可能性がある。

 一般的に、仕事には二つある。
 指示や方向性を示す仕事と与えられた作業をこなす仕事だ。

 ツールの進歩によってリモートでの仕事がしやすくなった事は否めない。顔を合わせなくても仕事に必要なコミュニケーションが取れる。
 だから指示をする仕事はどこでも出来る。
 それに、PCを使った作業をすることが仕事の人はどこでも仕事が出来る。

 その一方で、直接合わないと出来無い仕事がある。それは双方向の逐次コミュニケーションが必要な仕事だ。つまり、その場でのやり取りを通じて状況をリアルタイムで把握して即座に処理する事が必要な仕事。そうした仕事の場合、そこに流れる情報量はリモートと比べて遥かに多く、やったことの結果が目の前で形になる。
 この場合、指示する側と作業者は近くにいる必要がある。あるいはそれらを独りで担う場合もある。仕事をする側とそれを享受する人も近くにいる必要がある。
 そうした仕事をする人々のことをソーシャルワーカーと人は呼ぶ。

 大企業の多くは業務のタスク化、つまり効率的に処理する仕組みを作ることで進化してきた。その最も先端にあるのがリモート・ワークだろう。
 そうした抽象化された仕事は世の中の仕事全体のごく一部で、それ以外の仕事は現場でさばくほうが実は効率的なのだ。ところが、タスク的な仕事に慣れた人は自分たちが最も効率的に収益を上げているという自負があるから、現場仕事に近付かない。
 収益を上げることが仕事の目的なのであればそれで良い。けれど、収益を上げることは仕事の結果であって目的ではない。そこを勘違いしがちだから気をつけなければならない。

 仕事は何処かで現実と繋がっている。誰かがその仕事の結果に価値を見出してお金を投じ、それが収益の源泉になる。現場から遠く離れて、その源泉が何処にあるのか分からなくなってしまったのだとしたら、喜ぶのではなく絶望した方が良い。

 職住接近と言われながらなかなかそれが都市部で実現しないとしたら、都市という仕組みが悪いからではない。人が多く集まる事が悪いのではない。仕事を現実から遠ざけたがる私たちの気持ちが原因だ。

 敢えて通勤時間を掛けてまで会社に通うのは、人からお金を貰う場面を直接見たくないからだ。心の底では貰うほどの何かを提供出来ていないと感じているか、お金は不浄のものという観念が染み付いているからか。いや、それどころか私たちは人と直接関わる事に距離を置きたがる様になっている。

 ありがとうと言われることが仕事のやり甲斐になるのと同時に、知らない人とのコミュニケーションの場から距離を置く。それには物理的な距離のみならず心理的な距離もある。レジでのマニュアルトークもその現れだろう。

 プライベートエリアの外周に緩衝領域を持たず、むき出しの境界線上でプロトコルを見失った私たちは、プライベートエリアの侵害可能性に過敏になっている。それはまるでバリア機能の低下した皮膚の様に炎症を起こしやすくなっている。最近ではそれを炎上と言ったりする。

 私たちは外敵から身を守ろうとするアルマジロのように殻に閉じ籠もって、時々そっと外をうかがう様な習性を身につけてしまったのかも知れない。
 その生き物は、我とでも呼べるような小さな何かを基本にして景色を見ている。
 職と住だけでなく、あらゆるところに境界線を引きたがるものだから、職場の近くに住む事は考えたくも無いのだろう。

おわり
 

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