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映画『裸の天使』

 2005年の公開だから時代を感じるかと思いきや、全く違和感なく見ることが出来る。それはすなわち、アメリカでの格差や人種間の差別は変わっていないということでもある。そして恐らく世界中に当てはまることなのだろう。

 日本はここ20年で、個性やら多様性やらと言って、個人を尊重しようという考え方が急速に広まった感がある。それでも制服は無くならないし、髪色や髭、身につける装飾品について自由度はそれほど高くない。工場や現場でお揃いの作業着を着ているのも日本では当たり前だが、海外ではそうでもない。生活していると気が付かない同調性に縛られているのが私たちである。
 もっとも、非正規雇用が拡大したことによって格差は少し広まったから同調性は崩れつつあると言えるのだろう。当事者の見え方は別として、海外から見れば格差と言えるほどの差ではないが。

 欧米諸国の白人優位的な考え方は根強く、表向き薄らいでいるように見えても、実際には人種間格差はそれほど変わっていない。日本人がどんなに着飾って英語を喋れてもサルはサルだと思う白人は多い気がする。

 アメリカ社会の中の格差は経済的な面はもちろんのこと、社会的なケアや職業でもそうだ。そもそも住んでいるコミュニティが違う。だから、たとえ車に乗っていようとも夜間は立ち入ってはならない地域がある。昼間なら良いかと言えばそんなこともなく、銃を携行している警察官ですら怖がる場所があるから、普通の人は近づくべきではないエリアがある。マジで命がいくつあっても足りないような場所が普通にあるのだ。
 そうしたことを知らずにこの映画を見たら、あまりピンとこないかも知れない。

 アン・ハサウェイ演じる白人上流階級の高校生らが主役のこの映画、普段は優等生の彼らも、日常が退屈だからと言って友人らと危ないエリアに夜な夜な出入りして遊んでいる。肌の色も言葉も、着ているものも、そして立ち居振る舞いや緊張感が明らかに違うことに気が付いていない。いくら形だけ真似てみてもホンモノから見れば白けるくらいにニセモノで、子供だからまだ許せる範囲。高校生だからこそ一見無鉄砲に思えることを平気でやってしまうのだが、そこは水と油で、どこまで行っても混ざることは出来ない。
 所詮同じ人間なのだから分かりあえるはずという考え方が上からの目線であることを彼らはまだ知らない。
 

 絶対に混ざることの出来ない人同士が同じ国に住んでいる。それぞれが全く別のコミュニティを形成していて、それが社会を構成している。そうしたことがアメリカの日常なのだと、この映画を見ていて改めて痛感した。
 幸いそうした状況はこの日本には無い。
 立ち入るだけで命の危険があるエリアなど無いし、食堂で席取り用にバッグを置いておいても盗まれない。すれ違いざまにバッグを取られることは稀にあるが、気まぐれで銃殺されることは無い。
 
 私たちは、生活の場が清潔で安全であることが普通だと思っているが、これはかなり恵まれていることだ。命が脅かされるような犯罪にそうそう出くわすことがないのは世界的には稀有なことだ。純真無垢に無防備な状態で歩き回ることが出来るのはある意味幸せなことだ。
 日本は裸の天使のままでいられる、世界の中でも珍しい国なのかもしれない。

おわり

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