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世の中の大半は例外で出来ている

既成品や大量生産された工業製品に囲まれて過ごしていると、同じ品質であることが当たり前という感覚に慣らされてしまうのかもしれない。
挙げ句、均質でない状態に違和感を覚えるようになってしまう。

為政者としてはその方が御しやすいから好都合だ。

個性を大切に。
多様性。

こうしたことが声高に言われる時代に個性などない。ないからこそスローガンが掲げられるのだから。
もしあなたが、自分が個性的だと思うなら、きっと騙されている。
大きな枠の中に収められているにも関わらず、枠の中心付近でないというだけでそれを個性と言うと。
そう簡単には社会の枠から逃れる事は出来ない。仮に出来たとしたら、あなたは個性的だとは言われず、変人と呼ばれて排除され、いなかった事にされる。

それを差別と言っても良いが、差別されるうちは認知されている(たとえ無視されたとしても)と言える。だから差別という単語を敢えて使って表現するとすれば、それは超越差別とでも言おうか。

ひとりひとりが違っていて当たり前ということを否定する人はいないだろう。
なのにどうしても他人と比較してしまう。
人が動物であるからには、脳の神経細胞が発火するのは違っていることに対してだからだ。
人は違いしか感知できない。
他人との違いを見つけて喜ぶかと言えば、実際はその逆で、違うことに恐れ他人と同じ点を見つけて安堵する。これは実は自然界では異常なのだ。

違うということこそ、つまり多様性こそ自然界で生命がこれまで長い間命を繋いできた基本戦略であって、その時々で適したものが生き延び、そうでないものが犠牲になってきた(と言われている)。

現実は、多様性に満ちている。
ふたりとして同じ人はいない。
二度として同じことは起きない。

同じ製品はないし、同じサービスもない。
同じであるように見えているのは錯覚だ。

同じものが欲しくなったり同じ境遇を求めたり、同じであることに満足したり、同じものを求めてしまうのは人間のさがだ。性だから知らずのうちに同じになってしまう。
『個性的』という同じ枠組みにハマってしまう。

同じ、は人間の空想だ。
空想や想像はイノベーションには欠かせない。だから決してそれを否定しない。
けれども、現実と向き合う日常生活では、心地よい空想の世界に浸るのではなく、空想の世界から飛び出して現実の世界を直視しなければならない。

なぜなら、未来は空想の中ではなく現実にあるものだからだ。

世界の大半は例外で出来ていて、例外が未来の世界を作っていく。

おわり


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