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記述主義の向こう側

 何でも記述可能と思い込んでいる人を見かけることが年々多くなってるなと思う。記述というのは、言葉や文字や文章はもちろん、写真やデータや数式も含む。
 E-mailやメッセージアプリ、SNSでのやり取りが日常を広く覆い、テレビやインターネットで情報が垂れ流されているこの時代、触れるものの多くが何らかの方法で記述されたものだ。このnoteもしかり。
 記述可能であることが世界の全てとする立場をここでは記述主義と呼ぶことにする。

 記述可能であることの前提は、多くの人が同じように受け止めるということだ。誰にでも伝わるように表現しなさいというのはその典型だ。どこにそんなことが書いてあるんだよと気になる場面に出くわしたとしたら、あなたの思考は記述主義に染まっているかもしれない。正解が一つしか無いと思ったり、説明責任が過度に気になったとしたら立派な記述主義者だ。
 裏付けデータの提示が出来るものや、説明出来る事柄は、世界のごく一部でしかない。その他多くは記述不可能な不毛な領域が広がっている。そして我々は本当はそんな不毛地帯に住んでいる。

 何でも記述可能だとすれば、あなたの取説が作れるという事になる。
 あなたを記述しようとした場合、生きて来た時間の長さに比例したデータ量があるから、それを全て記述するのは不可能だと思うかもしれない。事実それはそうだ。限られたハードウェアを使って全てを記述し尽くすことは出来ない。しかし仮にメモリの物理的制限が無いとしても、あなたを記述することは出来ない。
 ここで私が言いたいのはデータ量の多さの話ではない。どんなに表現を尽くしてもデータ量を増やしても、例えばあなたの雰囲気みたいなものを正確に言葉にして伝えることは出来ない、というようなことだ。あなたについて大体のところは伝えられるだろうが、会って話をしてみたら抱いていた印象がちょっと変わったなんてことになるだろう。直接見聞きしなければ伝わらないようなことは記述可能とは言えない。つまりあなたの取説は作れない。

 例えば法律。
 法律には何でも書いてあると思うかもしれないが、実は何も書いていないに等しい。それは言い過ぎだとしても、少し考えてみれば世の中の全てを法律の中に記述出来はしないと誰でも分かるだろう。だから法律は意外とぼんやりと書かれていて解釈の余地が残されている。
 何でも文書に書けるのであれば裁判官も弁護士も法学者もいらない。漠然と定められたものを現実に即して当て嵌めていく可塑性こそが法律の要であり、その作業をするスキルを持っているのが法律家だ。

 子供の運動会の動画や写真を見て当時の感情が蘇るとしたら、あなたは撮影者ではなく自分の目でそのシーンを見ていたはずだ。ファインダー越しに見たものは記憶や記録には残ったとしても、感情という属性が抜け落ちた情報になってしまいがちだからだ。だから、我が子の通園していた幼稚園の園長先生は正しかったと今になって思う。彼は一眼レフカメラをぶら下げて、写真は私が撮って無料でお配りするので、お父さんお母さんは自分の眼でしっかりお子さんを見てあげて下さいと言ってくれた。だから、幼い我が子が風を切ってもがくように走っている映像が今だにありありと目に浮かぶ。先生の撮ってくれた写真が私の記憶を刺激して、私の頭の中では動画になって蘇るという不思議。

 記述の向こう側に広がるとてつもなく広い世界も、私達の住む世界の一部だ。
 野を駆け回って友達と泥だらけになって戯れて遊ぶことも、上手く言葉が並べられずドキドキしながら無言で手を繋いだ初めてのデートも、感動に涙が止まらなかった映画も、前を離れられなくなった絵画と向き合った美術館も、周囲が暗くなるのを忘れて物語の世界に入り込んだ小説も、熱狂の野外フェスも、向こう側の世界に通じるどこでもドアのようなものだ。

 こちら側の世界に閉じ籠もっていると世界を見誤る。
 世界は思っているよりも広いのだ。
 頭で理解出来ないことも、心で感じることがある。
 言葉が通じなくても通じ合うことは有り得る。

 向こう側の世界に通じるどこでもドアを立てるために記述を使えば、きっと世界はもっと広くなる。

おわり
 
 

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