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日本の平和と空気

 海外では物価上昇によって暴動が起きている国が複数あると聞くが、ここ日本ではそんなことにはなっていない。
 暴動は不満の発露に暴力的手段を使ったもの。実質なんの解決にもならないから、国民の主張のし方として良い手段とは言えないだろう。
 かと言って、日本のようにボヤいているだけでは何も変わらない、はずだ。

 はず、というのは実際はそうではないからだ。ボヤくだけで多少は変わる。なぜなら日本国民は政治家や官僚も空気を読むという習性があるからだ。
 読み間違えだってあるだろうけども、空気を気にすることには変わりない。
 国民の側もボヤくことで為政者に空気が伝わることを無意識に知っているし、政治家らも国民のボヤキを無視できないと思っている。
 ただ、みんなのボヤキを聞いてはいられないので選択を迫られるというわけだ。

 普段、国民の空気は目に見えないけれど、おぼろげに見えるタイミングがある。それが選挙だ。
 候補者は空気をかき分けて泳ぎながら、一生懸命に空気を読もうと努力する。それは最終的に票という形態をとる。
 票を投じる側も、具体的な政策論争を聞く振りをして、実際には空気を読んでいる。
 こうした傾向は日本に限ったことではないが、諸外国に比べて日本では空気頼み感が強い。
 つまり、何か良さそう、という印象が決め手。

 こうしたことは、良し悪しの問題ではない。空気ばかりで中身が少ないポテトチップスとは違って、選挙で空気を重んじるのは極めて健全だ。
 嫌な感じだけど仕事ができる人と、人当たりが良いけど仕事がイマイチな人のどちらを選ぶかということだ。
 仕事は一人でするのではない、というのがポイントだ。

 確かに、空気によってイジメが起きたり、空気によって事態が進まなくなることがあるのはデメリットだ。
 空気による決断のために理由がはっきりしない(何となくというやつ)とかいったことは後々困ることもある。
 それでも、そこにいるのが人間であるかぎり、空気を無視することは出来ない。
 どんなに理性的な人でも理性だけで生きている訳ではないからだ。

おわり

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