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哲学と私
反対意見を持つ人で、かつ、お互い冷静に議論が交わせる人が周囲にどれだけいるだろうか。
自分の趣味嗜好に近い人とだけの交流は心地よいかも知れないが、知らず知らずのうちに考え方が偏ってしまう。ネット社会では特に顕著となるから余程注意していないと知らないうちに思考が極端になってしまうことがある。
意見を闘わせるという言葉があるように、考えを異にする人との会話は感情的になりがちだ。
お前の考えはおかしい、お前は間違っている。お互いにそう言い合うだけであれば、そこからは何も生まれない。意見が違う人を自分と同じ考えに転向させることを目的にした話し合いからも何も生まれない。何かを生み出すためには、お互いに自由な心持ちで議論に臨めることが理想だ。
そして、議論は何かを生み出すものでなければ無意味だ。
私達は長年の学校生活を経て、正解や答えを見出すことに慣れすぎていて、自分の考えを表明することに不慣れになっている。何かの結論を出さない議論は無意味だと思い込んでいる。
議論は何かを生み出すものでありながらも結論がなければならないものではない。これには矛盾を感じるかも知れないが、議論から生み出されるものは結論以外にもある。
皆が納得する共通の結論は出なくても、議論を経て各自が納得出来る考えに辿り着くプロセスが重要だ。
ネット上に溢れる意見は、現実社会以上に両極化し易いことが分かっているという。ネット上では極端な意見の人ほど声高になる上に、その中間の意見を持つ人々は投稿することがないためネット上には現れないからだ。
両極化する意見が世の主流のように見え、そのどちらかが本当で、かつ正しいと受け止めるとしたら、それは世界を歪めてみていることに等しい。
様々な考え方が許容され、自由な発想で議論し、各人が各自の考える答えに辿り着くことはとても大切だ。人の考えは本来、選択肢から選ぶものでも、はいかいいえで答えられるものでもない。ましてや全員の意見が完全に集約されることも無い。個人の意見を述べて議論するのではなく多数決に挙手する習慣を植え付けられた私達は、結論を急ぎすぎるきらいがある。
何が正しいのかを議論することほど議論から遠いものはない。自由で自在な考えや思いを論理に乗せて語り合う。そんな哲学が日常に広まれば人はもっと生き生きと暮らせるのになと思い続けている。
しかしこんなことを言っているから私は理屈っぽいと敬遠されるのだ。
おわり
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