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決断できない人

 ECサイトでの買い物にレビューは欠かせない。
 ポチる前にレビューには必ず目を通す。

 こうしたことを通じて私達は判断を他人に委ねるようになっているようだ。
 最終的にポチるか否かを決断しているのは自分の人差し指だと私は思っていたが、決断に至るまでのプロセスを大きく省略してレビューという他者の意見に任せることで、判断する負荷を下げているのだという。
 判断することは人にとってそんなにも負担になっていることらしい。

 複数の選択肢があったときに、その中から一つを選ばなければならないという状況が、人によってはプレッシャーになることは分かる。
 あれも良いこれも良いと判断や決断に迷うのは、その人の中で情報が整理されておらず、情報の重み付けや優先順位、情報同士の関連性や結論に導くための道筋が見えていないからだ。
 数多あまたの情報が乱雑に脳内に溢れていたらそれだけでストレスになると想像がつく。

 では何故なぜ人は迷うのか。決められないのか。

 結論から言えば、その必要がないからだ。
 人が迷うのは決める必要性が薄い時だ。極端な話、ファミレスのテーブルについてから頼むメニューを決めるのに丸一日掛けても良い(真剣に迷っている場合はだ。迷っている振りでは早晩追い出される)。

 例えば突然大きな揺れを感じたとき人は考えるもなく逃げるか机の下に潜るだろう。しかし同じ規模の大地震でも小さな揺れから始まった場合、人は周囲を見回す。つまり判断に迷う。どうしようか、どうするのがベストか、この揺れは大きくなるのだろうか、というように頭の中で色々と考える間がある。

 考える時間的な余裕があるからこそ人は迷う。

 しかし厄介なのは、時間的な余裕があると思っているのが当人だけということがままあることだ。周囲の人は早く決めろよとやきもきしているのに当人はのんびりと迷い続けていることもある。
 決めなければいけない切迫度が人によって違うということだ。それは時間感覚の違いとも言える。

 時間感覚の話を突き詰めれば、人生に残された時間をどう捉えているかということになる。
 日本はどちらかと言えばライフタイムの個人設計をしなくても生きていける社会。エスカレータに乗ってしまえば良いから、自分に残された時間を意識している人は多くはない印象だ。企業に就職したら定年までの人生が確定されたと思っている人も多い。定年後のライフプランが無い人も。 
 そうなると逆に、いついつ迄にこれをしようという頭が働きにくくなるから、決断は先送りになる。

 企業のトップや管理職の報酬が高いのは責任の重さを反映したものと思っていたが、判断することや決断することが難しいことだからこそなのかもしれない。
 管理職が高齢になりがちなのは残された人生の時間が少いと認識している人の方が決断が早く出来るからかも知れない。

 決断スピードを気にしすぎて間違った判断を繰り返すようでは困るが、大抵のことはやってみないと分からない。考えてみても予想通りにならないことも多い。
 どうせ予想通りに行かないと思っている人は判断が早く、なるべく予想通りになるようにしたいと思っている人は判断が早くないとも言えるのか。
 先ずはやってみてこうだったら次の手はこうしよう、というように先々の選択肢を多く持てる人は判断が早い。その前提には試行錯誤がある。

 もっとも、どうなるか分からないからこそ迷う人と、迷わず決める人。その両極端のどちらが正解かは分からない。

おわり

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