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コミュニケーション

 外界とのコミュニケーション能力が低いのは日本の特徴だ。
 ここで言うコミュニケーションというのは共通前提の無いもの同士が情報や考えや思いを共有することだ。伝え方や受け止め方という技術面は手段であって、共有することが目的だ。
 日本人同士の場合、同じ日本人ということだけで共通の基盤を暗黙の前提にしている。言わずもがなとか、常識とか、分かるでしょという感覚をベースとして表面上の言葉のやり取りに終始するのはコミュニケーションではない。
 外国人との会話で、こちら側とあちら側という見えない境界線を無意識に引いて、こちら側の安全領域から建前をベースとしたやり取りをする、そんな経験は無いだろうか。いわゆる、ガイジンさんというモノの見方だ。それもコミュニケーションとは言えない。

 単なる情報共有や共感の共有もコミュニケーションとは違う。
 コミュニケーションの意味はそういった情報共有や共感の先にあるからだ。つまり理解し合ってことがうまく運ぶようにすることこそが目的だ。

 そこで大切なのが、意見や見解、バックグラウンドや考え方が違う人同士が、お互いにリスペクトし合って理解し合うことだ。
 理解というのは無条件で受け入れることとは違う。ただ相手の言うことを鵜呑みにしたり、同調することとは違う。
 むしろ、違いを違いとして明確にし、その違いを超えて共に進める道を模索することこそが、理解の上に立ったコミュニケーションだ。

 多様性やダイバーシティということばの普及で、様々な行き方や考え方や生きることへのスタンスが受け入れられ始めている。まだまだ入口の扉が見えてきた程度ではあるが、少なくとも社会が多様な人々で作られているということを理解しつつある。
 これまでは、どちらかと言えば型に嵌めて協調性のある人間育成が行われてきたが、そのやり方はこれからの社会には適していないと思われている気がする。
 それでも、多様であることの先にある相互理解まではまだ距離がある。
 違った目で違った方向を見ている人々が、その各様性を残しながらも共通の方向に進むためのコミュニケーションが追いついていないからだ。
 違う者同士がいがみ合うのではなく、かと言って協調するのではなく、共通項を見出して解決の方向に進む、そういったことを実現するためのコミュニケーション手法を身につける必要がある。

 そんな気がしている。

おわり

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