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人は変われる?

 私の場合、人は変われる派だった。三つ子の魂百までもと言うけれど、やり方次第で何とかなる範囲は相当広い。勝手に変われないと思い込んでいなければ変わることが出来る。そう思っていた。しかし、もしかしたら考え方を改めた方が良いかもと思い始めている。

 例えば、勉強が出来無い(テストの点が上がらない)子供がいたとする。世の中にはどうやったら勉強が出来るようになるかを説いた本が沢山出回っているから、それを読んで実践すればその子は勉強が出来るようになるだろうか。評判の良い塾に通わせれば良いだろうか。中にはそれで上手くいく場合もあるだろうけれど、殆どの場合、答えは否だろう。投資で成功したという人の書いた本を読んでも億り人にはなれないのと同じだ。
 でもそれは、その子が馬鹿だからなのではない。勉強に向いていないからでもない。駄目な子だからでもない。何々だからという理由付けが欲しくなるものだが、そういうことではなくて、それがその子の個性なのだ。

 勉強が出来るには、記憶力や集中力や理解力といった要素も重要だが、それまでの経験や興味によると考えても良い。国語や算数の点が取れる様に自然に育つ子はいないけれど、その内容に興味を持ったり、点を取ると親が嬉しそうにすることに興味を持ったり、解けたのを褒められた時の喜びが忘れられなかったりといった事が切っ掛けで記憶力や集中力や理解力がついてくることもある。

 では子供はやはり褒めて育てるのが良いのか。そこがまた違う。褒めるのは良いとしても、褒められてもさして嬉しくない子もいる。だから個性なのだ。
 テストの点という基準で生徒たちを眺めた時、点数を基準として学習進捗度を測定するのは良い。けれども、点数に達しなかった子に勉強が出来ないというレッテルを貼るのは間違っている。興味が持てる持てないは個性に左右されるところが大きい。
 目が覚めたら世界が変わっていて、大工仕事と絵描き描写力と料理スキルとサッカーのリフティング能力と円周率の記憶桁数で成績が決められる世界になっていたらどうだろうか。そんな教科で点数付けされて出来る人と出来ない人を分けるのが合理的だと思う人はいないだろう。せめてどれかひとつにしてくれと言いたくなるだろう。

 人は変われないのではなく、その人なりに成ることしか出来ないと言った方がきっと適切なのだ。
 自分の好みでは無い方向には変われないは普通のことのはずだ。変わろうと努力しても、自分に馴染まない方向には変われない。逆に言えば、興味を追いかけるうちに結果として変わっていたというのはあったとしても、他人に押し付けられた目標に向けて自分を変化させられる人は多くはない。
 
 だから、変わることを目指すよりも、その時々でどう対処をするのが一番楽(効率的)で大きな成果に繋がるのかを模索するのが良い。

おわり

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