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知の詰まった本に集う熱気と濃密な夜を思い出すとき

 読書は独りでするものと思う人が大半だろう。
 音楽ならイヤホンを分け合って二人で聴くことも出来る。映画やドラマなら何人もで並んで座って鑑賞することも出来る。でも、読書は独りきりで没入するのが普通だ。紙と文字と本の厚みからは想像出来ないほどの世界が浮かび上がるのを鑑賞出来るのは、読んでいるその人だけだ。

 大学に入るまでは私もそう思っていた。

 年相応に悩みを抱えて大学に入学した頃の私は、意識や存在や生死についての答えを求めて哲学的な書物に興味を持っていた。そこで入学してすぐに哲学科出身の教授が主催する倫理系のゼミ(単位とは関係ないサークルのようなもの)に参加した。毎週開かれるそのゼミでは、授業が終わった夜に教授の部屋に集まって車座になり、一つの本を数ヶ月掛けて読むということをした。参加者には学生だけではなく卒業した社会人もいた。

 読書の対象は教授や参加者の提案で決まる。やや難解な本が多かった。1回の集まりで進むページ数は多くて10ページ程度。誰かが一節を音読し、その文章について教授が簡単に解説しがてら参加者に話を振る。ひとつの文の解釈は人それぞれで少しずつ違っていて、書かれた時代背景やその分野の歴史的な背景を教授に解説して貰うことで受け止めが変わったりもする。参加者から、この点について別の論者はこう言っているなどという話も出て話は深まる。だから1文読むのに1時間掛かることもざらにあった。

 そんな遅々としたスピードで読んでいたら飽きるかと言えば、全くその逆だった。文に凝縮された意図を紐解いて皆の知を注ぎ込むその時間は、染色体の糸をほどいて遺伝子を解読する過程のような面白さと知的刺激に満ちていた。考えを論理的に組み立てることや、論理を読み解く訓練になった。議論というのはこうして行われるものなのかと教えられた。正解の無い問題についての議論が高い生産性を持っていることを知らされた。

 ノンフィクションを含めた小説を読む場合は素直に独りで没頭すれば良いだろう。それがそうした本の楽しみ方だ。
 でも、時には難解で手に負えないような本を読みたくなることもある。
 そうした時には、ああだこうだと議論をしながらほんの少しずつ読み進めるようなやり方が役に立つ。結果、何も分からなくてもいい。その過程があなたの中に何かを産み落としてくれる。
 そんな濃密な夜を思い返して、ただひたすら懐かしくある。
 もうあの時は戻ってこないと思うと、教授の吐く紫煙が充満した狭い部屋に集った知に対する熱気が急に脳裏に蘇って来た。

おわり
 

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