見出し画像

歴史は繰り返される

 最近の彼は、夕食後に外に向かって吠えるように鳴く。
 冬の今は午後6時であっても外は真っ暗だ。その真っ暗闇に向かって鳴き続ける。少しだけ物哀し気に聞こえる。
 きっと、夏から秋に掛けて夕方になるとうちの外に来ていた近所の猫を思い出しているのだろう。その彼は今でも時々うちの外にやってきているが、気まぐれな彼のことだから、時間は一定していない。
 夏から秋に来ていた時は、恐らく夕方の空に舞う鳥たちを眺めることが目的だったのだと思う。しかし日が暮れるのが早くなった今は鳥が舞うのももっと早い時間だ。だから彼はきっともっと早い時間に来ているはずだ。

 ところが、うちの彼の夕食の時間は午後6時と決まっている。だから夕食後というと午後6時を少し過ぎた頃だ。当然、表は真っ暗なわけだ。
 そう言えば午後4時を過ぎると、早く飯をよこせと言わんばかりに人の顔を物欲しげな目で見つめながら鳴き掛けてくるのは、明るいうちにじゃないとあの彼が現れないことを知っているからなのだろうか。

 暗闇に向かって悲しげに鳴くうちの彼を見ていると、行動は記憶に左右されるのだと改めて思う。
 それはきっと猫に限ったことではなく、同じ哺乳類の人間だって同じだろう。人間の場合は猫よりも事情が複雑になっているので、話がそう単純ではないだけだろう。
 例えば、人は褒められることで伸びるというのだって、記憶が未来の行動を左右する例だろう。褒められて嬉しい体験という記憶によって動機づけされることで、そのことに前向きに取り組むようになって上達する。
 悪い例で言えばトラウマだってそうだ。嫌なことの記憶は人の行動を制限する。嫌なことの原因となった人や場所には近づきたくなくなるだろう。

 記憶は個人に由来するものだが、社会に置き換えてみるとそれは歴史と呼ばれる。過去に起きたことは記録され、後年に歴史として振り返られる。歴史が記憶と同じようなものだとすれば、社会は失敗を繰り返したりすることはなさそうだ。
 しかし、歴史は繰り返すと言われる。
 良いことも悪いことも一定の期間を経て、再び起こるということだ。つまり歴史という社会の過去の記憶は十分に生かされないということだ。せっかく過去の教訓として記録していても、やがて風化してしまうことで、また同じようなことが起きてしまう。起きてみると過去にも同じようなことがあったことに気付き、後世に伝えるために記録される。そうやって歴史は繰り返されていく。
 人にしても社会にしても、過去の記憶が後の行動を左右することが出来るのは一定の期限がある。記憶は時間とともに薄れていくからだ。記録があっても生活をする人々の記憶から消えれば歴史は過去のものになる。だからこそ歴史から学べと言われるし、実際に学ぶことがあるはずだ。

 誰もいない暗闇に向かって鳴き続けるうち彼の、あの彼との記憶は、そう簡単には薄れることが無いくらいに楽しいものだったのだろう。だからきっと彼に逢いたい一心なのだろう。
 叶わぬとは知らずに右往左往しながら彼を鳴かせるその記憶は、再び日が長くなる春まで続くだろうか。それとも春になる頃にはすっかり忘れてしまって、再び新鮮な気持ちであの彼と出会うのだろうか。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?