見出し画像

組合が大変ですよ

 労働組合が大変だという。
 組合員の意識が低く、選挙にも行かないと幹部が嘆く。
 もっとも、雇い主に対抗して労働者の権利を盾に戦おうという意識高い系の組合員は少なくて、半強制的に入れられた感が強いだろうからそれも仕方がない。
 私自身は労働組合に属した経験がないから完全に他人事なのだが、意識を持たない人をいくら集めても組織として成り立たないのは自明であって、そうした惰性的加入は今に始まったことではないだろうと思うのだ。

 いまや誰も自分たちを労働者とは思っていない。労働者という言葉の背景には対立構造が見え隠れするが、そんなものは今の人たちには見えていないのが普通だ。「ただ会社で働いているだけですが、なにか?」という感じだろう。
「不満があれば辞めるだけです。戦って何か良いことでもあるのですか? てか、戦うって意味不明」ということではないだろうか。

 自由と自主は自己責任と切り捨てられることと背中合わせである反面、面倒くさい人間関係を回避できる。しかし、特定の人間関係だけが面倒くさいのではなく、人間関係そのものが面倒くさいのだとしたらそれは自由でも自主でもなくただの孤立だ。
 その方が楽だというのなら、つまり孤立上等というのならそれでもいいのだろうか。
 孤でも大丈夫というのと孤とは違う。他者との関係を持てないことは自由とは違う。

 話がそれたが、社会や会社との関わり方が希薄になったのは、それでもひとまず生活が成り立つからだ。
 仕事にプライベートを持ち込まないとか、プライベートに仕事を持ち込まないというのは、考え方としては間違っていないが、それは思想の話であって、仕事もプライベートも実際はどちらもあなたの一部だ。社会との接点としてはプライベートよりも仕事の方が多いのではないか。
 本当は地域社会というプライベート領域での社会接点があってしかるべきだが、都会では組合同様に地域社会も崩壊の危機にある。

 わたしたちは、社会と接点を持たずとも生活が出来ることを望んでいたのだろうか。
 日本的個人主義の始まりは核家族化にあると思っている。
 日本的個人主義というのは「権利主体としての個人」という思想とは無関係に、ただの個人、つぶつぶの個人にすべてを還元してしまう個人主義のこと。そこでは個人に対する過剰反応が常態化する。個人情報問題や〇〇ハラスメントが時に過剰に作用する。そこに「お客様」が登場するとさらにややこしくなる。
 そのような個人主義をわたしは個人極限主義と呼ぶ。

 核家族化はわたしたち自身が望んだことだったのか。それとも社会に要請されたものだったのか。わたしは後者だと思っているがどうだろうか。
 個人極限主義はわたしたちの望んだことだったのか。
 その挙げ句に、思い通りにならないことを面倒くさいと思い、関わりたくないと思うのだとしたら、社会そのものを否定することになる。社会以外で生きることは出来ないのにだ。
 この矛盾の中では、どこかに歪みが出る。
 歪は様々な形になって現れる。

 ショッキングな事件の原因が個人の中にあるとして個人だけが裁かれるのは制度上仕方がないとしても、その遠因たる社会の影響についてわたしたち自身も考えて行かなければならないと思う。
 そうしなければ、人間関係が多少面倒くさいと思うことがある私なんかが、気づいたら自分が犯罪者になっていたという事態が起こりかねない。

おわり

 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?