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隣人を愛せよ?

 愛される努力よりも愛する努力というような事が言われるし、私も以前そんなことを書いた

 そんなの綺麗事だよと思った人も多いだろう。
 この私もその一人だ。綺麗事だと思う。

 好意を持てない奴や、いさかいの相手のためを思って行動するなんてムリだ。期待できない人や失望の対象者の立場に立って、その人のために何かをするなんて不可能だ。
 むしろ愛して欲しいし、愛してくれないから愛して欲しいのだし、愛されたいのにどうして先にこちらが愛するなんてことを出来るか。そう思ってもおかしくない。
 なんじ愛されることを望む前に自分を愛せ、とでも過去の偉人が言ってくれていれば楽なのだが、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」なんてのたまう。
 無理ゲーだろそんなの。
 自分すら愛せないのに。

 綺麗事と思った人は、きっと、そう思うだろう。
 私がそうだからだ。

 だれでも自分のことは最優先に考える。考えるのは自分自身なのだから最初に考えるのが自分のことになって当たり前だ。
 それでいながら、自分と同じように隣人を愛せというのはおかしい。
 自分のことは忘れて他人ひとを愛せ、というのではない。どうやったら自分と他人を同時に愛せるのだ。まず自分だろう。
 でも確かに、自分が自分がと言っているような人を見るとさもしいと思うことがある。

 この矛盾の源はもしかすると愛するという言葉の意味の捉え方にあるのではないか。普段から愛する、愛してると口に出して言っている人なら隣人を愛せよの意味が分かるのかもしれないけれど、多くの日本人は愛という言葉を日常的に口にすることはあまり無いではないか。
 普段言わない言葉は言葉として終わっていて、なぜそんな言葉が大層大切なことを表すものとして使われているのか。
 もし普段私達が口にしている言葉や抱いている感情のうち、いわゆる外国人が日常的に口にするような「愛」に近いものが実はあって、知らないうちに普通に隣人を愛するようなことをしているということはないだろうか。言われなくてもとっくにやってるよそんなことは、ということはないだろうか。
 もしそうだとして、もしキリスト教の教えが間違っていなかったとすれば、日本という国は愛に満ちていて平和だということになるわけで、他国に比べて犯罪の少ないと言われるこの国の理由が、無意識に隣人を愛しているからということになりはしないか。

 日本には「お互い様」という言葉がある。「お世話様」という言葉もある。「おもてなし」という言葉にはホストがゲストにサービスするという二元論を超えた意味合いがある。すっかり悪い印象になってしまった「忖度」や、「きづな」だってある。
 これらは西洋の「愛」に近い意味を持っていると思う。
 これらの日本語が時代とともに薄れている感は拭えないが、日本人は日常のあちこちで愛を表す行為とともに生活してきたとは言えまいか。

 誰のせいなのか犯人探しも良いが、もう一度「お互い様」を思い出してなるべく他人に寛容でありたいと思う。

おわり


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