投資家保護という言葉の違和感
投資家保護という言葉がある。私はこれに凄く違和感を抱く。
ハイリスク・ハイリターンの投資商品で損をしたという苦情が増えていることを受けて、業界団体が自主規制に取組む事になるらしい。どのみち、投資家保護の対策を打たないと手が入りますよという、お役所の誘導によるものだろう。私の想像だが。
保護しなければならないとされている「投資家」は果たして投資家なのだろうか。
私の理解では、最悪無くなっても良いやという心構えで、社会の歯車として活躍する、あるいは活躍しようとしている企業や起業家らを助け応援する為にお金を投じるのが投資家であって、儲からなかったと言って怒り出す輩は投資家ではない。あくまで私の理解では。
そのような輩は巷に溢れている拝金主義者であり、社会に役立つ投資が出来るような大金持ちを除けば、私を含めた殆どの日本人が当て嵌まるだろう。
金持ち以外は投資をするなと言っているのではない。心持ちの問題だ。
投資をして損をしたと言うのだとしたら、それは投資ではなく楽して儲けようという射幸心に過ぎない。自分が将来的に得をしたいのであれば「投資」に注ぎ込むのではなくて、知識やスキルの習得にお金を投じた方が良い。その典型的な例が自ら高学歴を目指す学生達だ(残念ながら親に言われて受験勉強をしている子供たちは違う)。
投資は自己責任でという意味が今ひとつ浸透していないのは、皆がそれを投資と呼びながらも投資の事を理解していないからだろう。原理主義的に言えば、自分の為にするのは投資ではない。儲けが出たとしたらオマケだくらいの感覚が良いのではないか。だからリスクの低い投資商品等という謳い文句に騙されてはいけない。
投資をするにしても、金持ちの方が儲かるのは資本主義の定め。結局金持ちがもっと金持ちになる仕組みが資本主義ということかよ、というのはその通りだ。ただし、それはお金の流れの方向性の事であって、それ以上ではない。
少し難しいかも知れないが想像してみてほしい。個人資産が何十億もあったら無条件で幸せだろうか。楽な生活が出来るだろうし、美味しいものは好きなだけ食べられるだろう。欲しい物は何でも買えるし、何より明日食えるかどうかのお金の心配は無い。そして、あくせく働かなくて良いかも知れない。
そういった事はカネがありさえすれば実現出来るだろうけれど、それと幸せかどうかは本質的には別問題だ。
そう言われたところで、カネは無いよりあったほうが良いに決まっていると思うのではないか。だとしたら、それ程までに日本人の心が荒んでしまったというだけのことだ。
ところで、良い投資家と悪い投資家がいるとしたらどんなだろうか。良い投資家が投資の上がりを社会に還流してより良い社会になることを願うのに対して、悪い投資家は投資の上がりで私腹を肥やして溜め込むだけだ。それらの中間には儲けを散財する普通の投資家がいる。
一般的な投資家のイメージは、普通の投資家と悪い投資家だろうか。
理想論と言われるかもしれないが、投資でのバックが得られなくても損をしたと言わない良い投資家が増えてくれることを願いたい。
混雑をかき分けて電車内に残る一つの空席にまっしぐらに駆け寄り、座れた事にほっと胸を撫で下ろしている人を見掛けると、何とも虚しい気持ちになるのは私だけだろうか。
おわり
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