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おすすめのダンジョンに住むのは快適?

 情報に対して受動的だった時代はとうの昔に過ぎ去った。そう思っているだろう。
 情報に受動的とは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等、情報が勝手に降ってくるタイプの媒体を頼りにすることだ。

 現在では殆どの人の情報入手先はネットだ。
 ネットでは受動的ではない方法で情報を得られる。検索すれば必要な情報の大半は得られるからだ。手元でいつでも調べられる状態が定着すると、今度はそれが面倒くさくなって、今ではニュースアプリのように数多ある情報から勝手に選り出してくれるサービスを利用するようになった。これにより自分が欲しい情報のみを受信できるようになった。
 これは受動的な情報取得の部類なのだが、人は能動的に情報を得ていると誤解している。
 つまりネットを通じて一瞬だけ能動的になった私達の多くは再び受動的になってしまった。しかも、自分好みに抽出された情報にしか触れないようになっていることは進歩というよりも退化だ。

 欲しくない情報などどうせ見ないのだから最初から省かれていた方が時間の節約にもなるしストレスにもならない。そう思うだろう。
 しかし限定された自分好みの情報しか目にしないことの弊害は少なくとも二つある。
 ひとつは、視野が狭くなることだ。これは分かりやすいだろう。限定された情報にしか触れる機会がなければ当然視野は広がらない。つまり相対的には狭くなるのと同じだ。
 もうひとつは、自分は正しいという誤解が膨らむこと。世界は自分と同じ考えの人が多いのだという錯覚に陥る。それによって万能感の強化にも似たことが起きる。

 そしてこれらの結果、私達は世界から分断される。ネットを通じて世界と繋がっていて、しかも世界と意思疎通が出来ていると思い込んだ挙げ句に、実際の世界からは切り離されていく。なぜなら、こうしたプロセスを通じて私達は、自分の趣味で固められた居心地の良い自分の部屋に閉じ込められてしまうからだ。その部屋は決して世界などではない。あくまであなたのプライベート空間に過ぎない。つまり他の全ての人々は別のところに居て、あなたとは別の考えを持ち、別の生き方をしている。

 このことは当たり前過ぎて誰も気付いていないようだ。私達は知らぬ間に、他の人も皆同じ考え方をすると思い込んでしまっている。思考や知識や習慣の均質性を盲信してしまっている。人種的な多様性の少ない日本ならではの現象かも知れない。
 こう聞いたあなたはきっと、いやそんなことはないと反論するのではないか。
 しかしそれは、ある日突然仕事場の同僚がいたずらで英語で話しかけて来るだけで露呈する。きっとそんなことをされたら、何でコイツ日本語以外で話しかけてくるの? と思うだろう。この社会は日本語を話す日本人によって作られていると私達は思い込んでいる。日本人ならこう振る舞うはず、こう考えるはずという共通の妄想の中で暮らしている。
 そうすると、空気読めよ、となる。
 電車が少しでも遅れると、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車の中でも大慌てで会社に遅れますコールをするようになる。

 ネットは何かを調べるのには便利な道具だが、それに依存して生活するのは極めて危険だ。それはSNSのことだけではなく、Amazonだって、Netflixだってそうだ。
 道具は使うものであって使われてはならないのだ。

 そして、ネットに落ちていない情報はネット上から拾い上げることは出来ないということを忘れないようにしたい。おすすめの何々は、極力無視したい。

おわり
 

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