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ゴミとクズ

 ごみくずちり
 不要になったもの、使えないもの、利用価値の無いもの。汚いもの。屑は良いところを取ったあとに残る使えない部分を言うらしい。

 花火大会の後や登山客が通り過ぎた山道にゴミが溢れているといった報道を聞くことが多くなった。何処か他の国のことではないかと耳を疑う。
 今でも海外から日本に来た人は、日本の綺麗さに感嘆すると聞く。自然の美しさは勿論のこと、街にゴミが落ちていないと。
 ゴミは持ち帰る、その辺に無闇にゴミを捨てないといったことが浸透していたことや、街の人たちの美化活動が行き届いていたからだろう。今でも大半の人がゴミを持ち帰り、ポイ捨てをしていないと信じているが、それでも残されるゴミが増えるのは、生活の中で出るゴミの絶対量が増えているからでは無いだろうか。

 冒頭に挙げた通り、ゴミとは使えないものの事だ。利用価値が無くなったもの。ゴミが勝手に使えなくなることは無いから、使えないと決めるのはゴミではなく人の方だ。
 自然の中で生きる風土だったからか、それとも戦後の貧しい時代があったからか分からないが、かつての日本では生活の中で出るゴミは殆ど無かった。ヨーロッパでは川に垂れ流していた人の糞尿すら日本では肥やしとして畑で活用していた。リサイクルが自然と実践されたエコな社会だったのだ。

 〇〇には捨てることろが無い、という言い方があるのを聞いたことがあるだろう。あれは〇〇には本質的に捨てるところが無いということではなく、捨てずに使い尽くすという人の側の認識を示している。例えばマグロで言えば、頭や骨は切って捨てても構わないはずだが、日本人はそうはしなかった。せっかくの天の恵みを捨てるなんて勿体無い、この部位もきっと使い道があるはずという信念が社会に浸透していたのだろう。

 今の時代でも、自分が要らなくなったものはゴミと言って何でもかんでも捨てているのではないことは承知の通り。そうでなければブックオフやフリマアプリが繁盛する筈もない。残さず食べるとか残さず使い切るといった感覚が少し薄れただけだ。
 それなのに、実感としては生活で出るゴミは増えるばかりだ。つまり個々人の生活の中で不要となるものが大量生産される社会の仕組みになっている。

 生活ゴミの中で多いのが何かは言うまでも無いだろう。リサイクルを前提としたゴミだ。
 リサイクルなのだから良いじゃないか、旧来の日本の思想が活かされていると思うかも知れない。しかしかつて畑に撒かれた糞尿の様に効率的には活かされていないだろう。そもそもが過剰な包装が多いし、使い捨てを前提として作られているものが多い。何故ならその方が便利だからだ。

 便利を追求すること自体が悪いのではない。しかし便利を実現するために仕組やエネルギー収支で無駄なものが発生しているのだとしたら、ゴミが増えるのは当然だ。まずは生活レベルで使い回しが出来る仕組みを前提としてゴミそのものが少なくなる社会を目指したい。そのためには、改めて勿体無いという意識を持つことではないだろうか。

 年寄を社会のゴミと呼ぶような社会があったとしたら、それこそそんな社会はゴミだ。年寄と言わず高齢者と言い換えるのも、まるで年寄という言い方が厄介者を連想させると言わんばかりだ。
 自分のケツを拭かせる為に死ぬ間際まで働かせるという経済的を軸とした年寄の使い方ではなくて、年寄はいるだけで素晴らしい社会の糧だという様に社会的な軸に考えられれば、ずっと豊かな社会になる可能性があるだろう。
 ともかく今は、切って捨てられる様な屑にならないようにもがいているところだ。
 ところで、ゴミの語源は落ちた木の葉だという説もあって、邪魔なものというニュアンスがありそうで怖い。

おわり

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