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Solidarity

東京オリンピックの開会式でのIOCバッハ会長のスピーチに多く出て来た「Solidarity」。

ライブ放送では「団結」と翻訳されていた。スピーチ全文翻訳では「連帯」と訳されたものもあった。
バッハ会長の長すぎると言われたスピーチでは、何度も「solidarity」という単語を用いて、この困難な時代に必要なのは社会の、社会間の連帯が必要とし、オリンピックはその象徴的なものだと語られた。


Solidarityは、英和辞書では団結、連帯、結束、一致とある。
語源は、固体を意味するsolidと同じラテン語のsolidus。
Solidは固体、中身が詰まっていて硬いもの、確固たるものという意味で使われる。

英英辞典では、「agreement between and support for the members of a group」、つまり「グループメンバー間での合意と支援」。

日本語で団結や連帯という言葉からイメージすることと、英語でsolidarityと聞いた時にイメージすることは、恐らくだいぶ違う。
個人主義が基本となる英語世界では、社会の基本単位は個人(individual)であり、いろいろなバックグラウンドや考え方を持つ個々人が共通の目的のために合意(agreement)したり支援(support)したりすることのハードルは高いというか、強い動機やある種の手続きが必要だ。

みんながバラバラの方向を見ているのが当たり前の社会では、同じ方向を向いて協力するための仕組みが必要となる。
バッハ会長のスピーチは、パンデミックによって分断され、より距離が広がった世界を、聖火の光のもとで集まり(together)、団結することが脱パンデミックに役立つとのメッセージでした。

日本社会では、社会の基本単位が個人よりも共同体に重心があって、共同体への協調性が暗黙の常識となって個人を縛り付ける。すなわち、無意識的な同調圧力の強い社会と言っても良い。
団結や連帯と似た言葉で「絆」という言葉が日本では使われてきた。
団結や連帯と絆との違いを考えてみると、敢えて言えば絆は無意識的な同調社会であることが前提になるように思う。団結よりも絆の方が密度が高い気がする。

だから、いまさら団結とか連帯と言われても日本人にはピンと来ないのではないか。

しかし、掲げられたSolidarityというコンセプトは、同じバックグラウンドを持つ日本人同士の絆よりも、広く大きな概念だ。
バックグラウンドが異なる人々の集まる多様性豊かな世界で、お互いに合意することがどうやったら出来るのか、お互いに支援し合うような社会をどうやって構築出来るのかということを考えさせられる。

長くて飽きるスピーチではあったが、ダイバーシティが実現された社会でどう連帯していくかという問題は、世界はもちろん、今後の日本社会での個や共同体のあり方を考える上で重要なメッセージであったと私は理解している。

おわり


 




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