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映画『市子』

 川辺市子(かわべいちこ)の話だ。
 けれども、彼女はこの世に存在しない。
 彼女は舞台や映画というフィクションの中の存在だから。
 でも、同じ様な境遇の人はあなたの隣にもいるかも知れない。あなたが知らないだけで。

 数年の交際と同棲を経たある日、長谷川は市子に婚姻届を見せてプロポーズする。レストランやディズニーランドでのサプライズではなく、自宅でのひもじい夕飯の時だ。結婚の申し出を聞いた市子は、じっと目に涙をあふれさせて喜ぶ。私でいいの、と。

 長谷川が婚約指輪の代わりにプレゼントしたのは浴衣だ。市子はあの時のように、かわいい、と小さくつぶやく。
 女性はプロポーズされることにここまで感動するものか、と私は我に返って自分の過去を少し後悔したが、どうやらそれは杞憂きゆうだったようだ。

 翌日長谷川が仕事から帰宅すると、自宅に市子の姿は無かった。ベランダの窓が開けっ放しで、カーテンが風に揺れている。何の書き置きもなく突然姿を消してしまったのだ。
 残されたのは、ベランダに置き去られた荷物が詰め込まれたカバンと、初めて二人で住み始めた時に撮った、写真立てに入った思い出の1枚だけだった。

 幸せの絶頂でこれからという時に、どうして市子は突然いなくなってしまったのか。長谷川には全く心当たりがない。少し外出しただけですぐに戻って来ると思っていたから警察への届け出は遅れ、刑事にそれをいさめられる。さらには、彼女のことを聞かれてもろくに答えられないことに、疑いの目を向けられすらする。結婚したいと思うほど彼女のことを分かっていたつもりだったが、実のところ何も知らなかったのだ。
 幸せな生活に浮かれていたのではない。
 ある理由があった。



 自分の家族のことを他人は驚くほど知らない。そりゃそうだ。他人は家の中に土足で入ってきたりしないし、家族の側も対外的に見せる姿と身内に見せる姿は違っている。どんな家庭にもあることだ。
 だから、同級生の家庭にいかなる事情があっても、それが表に出ることはそうそうない。取り立てて秘密にしていないことも、していることも。

 親ガチャという言葉には嫌な印象しか抱いていなかったが、広い意味で生まれ育った環境が子供の成長や価値観に与える影響は、親が思うよりもずっと大きい。
 大人はいいのよ、と、つい言ったりしてはいないだろうか。大人だけに許されることなんて本当は無いのに。大人は仕方ない、なんてことも本当は無い。まして、親の側の不遇を子供のせいにしてはならない。
 たとえそれが分かっていても、子供の態度が悪いのが悪いのだと親が感じる瞬間は、割と身の回りに転がっている。親本人は気づかないうちに。

 市子を演じた杉咲花の過去の写真を見てみて、どことなく陰を感じさせる雰囲気を持っていたのだと改めて思った。天真爛漫というよりも、どこかうれいを持っている表情をすることがある。それも育った環境が影響しているのだろうか。
 ほのかな憂いが感じられる存在という意味では、杉咲は本作に適役だったのだろう。全編を通じて市子の存在感を中心にストーリーは進むのだが、その主役が序盤に疾走してしまうのだから、明るい話になるはずもない。

 やるせない、というのはこういう気持ちなのだろうと、エンドクレジットを目で追いながら感じっていた。
 悲しさや嬉しさ以外の涙がしずかににじんでくるのを知った。

おわり



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